今週のひとりごと

なんのイベントもない普通の日、広場にいろんな年代の人が滞在しているとき、ほのぼのしててとても気持ちの良い感じがする。

おじいちゃん、おばあちゃん、孫、学生、夫婦、ランチを食べている人、海外の方、それぞれの人がいろいろな方向を向き、したいことをしたいようにしている。それは、そこに誰かが「集めた」のではなく、自然と「集まった」という言い方がふさわしく、各々の自発的な行為にもとづいている。

反対に、ある一定の年代、性別、嗜好の人だけが集っているとき、ちょっと不気味な感じがする。

それが、学生でも、あかちゃんでも、おじいちゃんでも、だ。

さらにみんなが同じ行動をしている、となればよりこわい感じがする。ひとりひとりを個として認識出来なくなり、急に”集団”というひとかたまりのなにかに思える。本当はひとりひとり違うのに、不思議なものである。

昔、学校にいけなくなってしまった女の子の話を聞いているときに、「みんなで教室の中で、同じ服を着て同じ給食を食べているのがどうしても気持ち悪い」といっていたのを思い出した。そのときの彼女の気持ちと、私の感じた不気味さは近いのか、そうでもないのか。

同じ制服を着て、同じ教室にみんなでいることを、当時の私は気持ち悪いとは思わなかった。それは、”全体”ではなく、”個”として認識していたから、なのかもしれない。前の席のAちゃん、隣の席のKちゃん、窓際のMちゃん。そう見ていくと、教室は集団には思えない。みんなそれぞれのことをしている、それぞれの人がたまたま居合わせている状態に思える。同じ服を着ていても。

例えば、親族の集まりなど、自分もその中にいるときには自分たちの事を”集団”だとは思わない。けれど、はたから見た人にとっては間違いなく一族の”集団”である。別々の服を着ていても。

”ひとかたまりの集団”を感じるときとそうでないときは、自分を外部においているか内部においているか(物理的にというよりは、心理的に)ということなのかもしれない。

というようなことを、広場を眺めながら考えている。

というのも、誰もが居心地良く過ごすためには、誰も”疎外”されていない状態が望ましいから。わかりやすくいえば誰も占領していない、占領しようとしていない状態である。

そこには所有意識や集団心理なども関わってくる。

譲り合って、差し出し合って、補い合っていく、というのは不特定多数の中でも起こり得るのか。はたまた、特定多数ではどうか。

今週も見守っていきたい所存です。

2026年10月19日 | Posted in PEDE STAND, お店のこと, ブログ | | No Comments » 

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