三角公園の脇から考えたこと
道路でおじちゃんたちが、たむろする。
公園脇のお酒のある自動販売機の前が、勝手に立ち飲みバーになる。
おそらく約束をしていないのに、続々と人が集まり、ただの空き地が「場所」になっていく。
誰から購入するわけでもなく(正確には自動販売機から購入するが)誰かのルールに従うわけでもなく、ただ好きなように人が集まり、好きなように解散していく。
自分たちで自分たちの居場所を自治しているその光景に呆然とする。
先日見た、大阪市西成区の光景がとても強いインパクトとなって脳内に残っている。
まちづくりをするときに「どうしたらパブリックスペースに人は滞在するのか」「滞在の中から能動的に人と人が交流していくには」「個人個人の孤独を解消して、より心地よい街にしてきたい」「自分たちの街に愛着を持ってもらう」というようなものがある。
私自身もとても興味があって、駅前でコーヒーを淹れているのはその一端を担いたい、という思いが強くあるからだ。
先日見たその光景は、必死で私たちが考えているものを、ゆうに飛び越えているように思えた。
誰かが用意した「楽しい」を購入せずとも、自分たちでつくっている。
それにはある程度の「空いた時間」が必要だ。時間があるから「楽しい」を手作りできる。
時間がなければ手っ取り早く「楽しい」を購入せざるおえず、それを購入するには「お金」が必要になる。「お金」を稼ぐためにはまた自分の「時間」を提供せねばならず、空いた時間はなかなかできない。
ある時から「わかりやすい楽しい」を購入することについて、懐疑的になった。
テーマパークや、観光地は「わかりやすい楽しい」をお金で買える。それはそれでいいのだけれど、「わかりやすい楽しい」を購入し続けていると、自分で見つける「楽しい」の感性を鈍らせてしまうような気がして、怖いのだ。その先にあるのは「退屈」と「誰かに楽しませてもらおう」という受動。
ひとりひとりの「空いた時間」が増えるほど、自分たちで自治できる範囲は増えていき、アナキズム的な社会になるかもしれない。資本主義を推し進める社会が「個人の時間」を根こそぎ奪っていくのは「自分たちで自治されたら困るから」という側面もあるのかもしれない。
なんてことを、三角公園をぐるぐると回って歩きながら考えました。おもしろかった。またそのうち観察に行きたいと思います。
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コメント4件
三角公園なのかどうかは分からないが、この地区の公園で他人の入れ歯を借りて来る様なおじ様達が集まって、元プロのジャズシンガーのお姉さん?が歌うのを聴いている様子をTVで見た事がある
おば…お姉さんと観客はケンカをしている様な汚い言葉でやり取りしていたが、それが日常なんだとか
でもお互いにとても楽しそうな印象でしたね
「わかりやすい楽しい」は音楽にも求めてしまう時代らしい
アーティストがアルバムを出しても「ベスト版しか買わない」、「シングルカットされた曲」だけをダウンロード購入、売れている曲だけが欲しいって人が増えているらしいです
アルバムは曲順も考え抜かれているんだし、何度も聴いていると好きになる様なスルメみたいな曲を見逃す(聴き逃す)なんてもったいないと思ってしまう
テーマパークもグランピングも楽しいのだろうけど「お金で買う楽しさ」、「楽しませてもらっている」って感じます
自分で見つける楽しさ、ちょっとくらい上手く行かなかったり苦労した経験の方が思い出にも残る気がします
コスパの時間版の言葉として”タイパ”が使われるようになり、ドラマや映画は倍速視聴が当たり前になり、自分の感覚で物を選ぶエネルギーを省くためにランキングに注目。で、ランキングで上位に位置するのは「わかりやすい楽しさ」。
でも、ゆっくり歩き、ゆっくり食べ、ゆっくり考えることで自分なりの楽しみ方を見つけられることもあるし、その方がエネルギーの使い方としても健全だと思うことも多々あります。
のんちゃんの場合は意外と不健全も好きそうな感じもするけど(笑)