元気ですか

あのおじちゃん、元気かな?
あのおばあちゃん最近見た?大丈夫かな?
私たちの間でよく行われるやりとりである。
自分が見かけていなくても、スタッフの誰かが見かけていればとりあえず生存を確認できたということで、ほっとする。そしてまたしばらく経って、あれ?そういえば元気かな?と、また思い出したりして、そういう感じでいろんな人の顔が、かわるがわる脳裏に浮かぶ。
あるおじちゃんは、「自分が1週間ほど来なかったら逝っちゃったと思ってくれ」と冗談交じりにいう。ひとり暮らしであること、定年を迎えて何年も経っていることなどもあり、あながち冗談だけだとも思えない。
そのときに私達に実際に何ができるのかは分からないけれど、”自分の生存を誰かと共有しておくこと”で、ほんのちょっと不安が減るのかもしれない。だとしたら、その役割は必要なのだと思う。
最近は、ひとりのおじちゃんの身を案じている。
そのおじちゃんと私は、決していい関係とは言えなかった。おじちゃんはいつもいろんなことに怒っていた。警察に、行政に、街に、商業施設に、あらゆる窓口に怒鳴り込んでいた。
機嫌の良いときには、にこにこといろんな話をしてくれた。楽しそうにコーヒーを飲んでくれた。ここのコーヒーは美味いな!と言ってくれた。
いつもひとりでベンチに座って、険しい顔をしていた。
それを見つけて挨拶すると、にこりとしてくれるときもあったし、片手を上げてくれることもあったし、プイとすることもあった。
あるときには、私が彼の逆鱗に触れてしまったらしく、警察に引っ張られるようなこともあった。(ちなみに、そのときにたまたまそこに居合わせたお客さんがなだめて助けてくれた。それが今の旦那さんで、 ある意味おじちゃんはキューピッドでもあるわけだけれど。)
怒りは、二次感情だ。
なにか別の感情が、彼の”怒り”を湧き立てている。それが”悲しさ”だったのか、”さみしさ”だったのか”不安”だったのか、どうしてそうなったのか、何がそうさせているのか、ずっと知りたかった。
彼にとって、怒りがコミュニケーションであるようにも思えた。怒ることで、誰かがその間は自分を見てくれる。正面に立ってくれる。真剣に耳を傾けてくれる。
切実な願いを叶えているのかもしれなかった。
だから、彼に、”怒り”を使わなくても、あなたの話を聞く人はいる、悲しいことを悲しいまま吐き出してもいい、ということを伝えたかった。
おじちゃん、元気かな。また街のどこかで、元気に怒鳴っていてくれたらいいな。
あなたの話を聞く人はここにもいるからね。







コメントを残す