好き=適当?
好き、というのは、なんなのか。もしかしたら”適している”ということか。
先週はそのことについて考えていた。
私は、コーヒーが”好き”だ。そこに理由なんてない、と思っていたけれど、もしかしたら、本当は、そうでもないのかもしれない。身体的な理由があるのかもしれない。
最近自覚したのだけれど、私の体内では、アドレナリンがつくられにくい(気がしている)。アドレナリンは、生存において危機的な状況に出てくるホルモンで、脳と体を戦闘モードにする。
スポーツや競争などにおいて、集中力や意欲を高め、潜在的な能力を発揮し、パフォーマンスが向上する。交感神経が刺激されると、アドレナリンなどの物質が体内で生成され、身体が活動的状態になる。
この”活動的状態”を、自然につくるのが、私には難しい。
競争したり、勝負したり、スポーツをみたり、恐怖を感じたり、突発的な怒りの感情、そういう”興奮状態’”がとても苦手だ。苦手だから距離をとっている。
どちらかといえば、”休養状態”である副交感神経のスイッチが入りがちで、朝から夜までいつでも寝れるくらいの眠気が常にある。基本的にリラックス状態で、感情の起伏が強くない。身体が休まっている状態。
これが自分の基本スタンス。ただ、この状態が強すぎると、日常生活に支障をきたす。
身体も脳も”リラックスモード”すぎると、意欲が低下し、集中力はなく、危険から身を守ることができない。ぽや〜っとしすぎてしまう。
だから、コーヒーを身体の中にぶち込んで、私の日々をなんとか動かしてもらっている。
誰かにコーヒーを淹れる、ということも、私が活動的にいられ、日常生活を営む上で欠かせない要素なのかもしれない。
そういえば、学生の時はフリスクを過剰摂取していた気がする。毎日ポケットに入れていて、なくなりそうになればそわそわしていた。そうでもしなければ、授業中に起きていることができなくて(それでも起きていられなかったが)
それを私は「フリスクが好きなんだよね!」と言っていたけれど、もしかしたら、それは好きというより、自分にとって「必要不可欠」だったのかもしれなくて、コーヒーをいつでも飲める今となってはフリスクはもう、そんなには食べていない。
フリスクの何がそんなに「好き」だったのかは、今となってはわからない。好きだったのではなく「必要だった」と言われればしっくりくる。
もし「好き」ということが「自分にとって必要」ということだとしたら、相手がある場合において「好き」は正当化の理由にはならない。
好きの押し付けは、自分の一方的なエゴだ。
それにしても、「好き」に理由がついてしまうと、途端にあっけない印象になる。
「あなたのことがとっても好きです!!!」と伝えられたら感情が乗っかるけれど、「分析の結果、私にはあなたが必要だと判断しました」と言われれば、なんか、あんまり嬉しくない。え、あ、はい、それで?という話。情緒がなくなり、そそられない。なんだかさっぱりしすぎている気もする。
もしかしたら「好き」と「嫌い」という言葉は、オブラートなのではないか。無意識に導き出した理論を感情というオブラートが包んで、相手に受け取りやすくさせる役目があるのではないか。人と人が、関係を構築していく社会において、潤滑させるために必要な概念なのかもしれない。
「好き」が自分にとっての”適切”で、「嫌い」が自分にとっての”不適切”だとしたら。
自分にとっての必要なものが「好き」、自分にとって不必要なものが「嫌い」ということだとしたら。
なぜ、あなたにとってそれが”必要”なのか。なぜ私にとってそれが”必要”なのか。それは、自分に向き合うきっかけになる。
そして、その”必要””不必要”を越えるのが、”愛”なのかもしれない。
そんなわけで、情緒も何もないことを書いてしまいすみません。今週もコーヒー飲んで、目を覚まして、元気いっぱいがんばります◎休み明けの方も、そうでない方も、今週も良い日々となりますよう。
コーヒーが好き
味?香り?淹れること?…
「無くても良いもの」ではなく「無いと困るもの」、「何が好きなのか分からないけど好きなもの」
「好き」に理由は要らないのかもしれません