ジュンプウマンパン

たとえば、◯という理想を描いていて、現実は▢だった場合、▢は理想通りではなかったということで、近づけるのであれば角を一生懸命に削る、ということになる。
たとえば、理想を描いていなくて、現実が▢だった場合、▢は▢でしかなく、何かに近づける必要もないので、そのまま▢として在るままでよい。
上が完成図が先にあるトップダウン的なものだとしたら、下が実際の”現状”からはじまるボトムアップ的なものといえるかもしれない。
やりたいことを決めてからそこに向かって進んでいく方法と、身体が勝手にしてしまうことがやりたいことなのだと気付くいう方法、”好きなことをする”とひとえにいっても、方法は異なる。
先日「あなたの人生は順風満帆ですか?」というような話の流れになり、それから数日の間「順風満帆」という言葉が頭から離れなかった。
ジュンプウマンパン。すぐには意味がわからなくて、いや、意味はわかるのだけれど自分の中にその概念がなさすぎて、ジュンプウマンパンジュンプウマンパン、と呪文のように唱えていた。
結論として腑に落ちたのは、思い描く理想の形がないのだから「順風満帆」も「順風満帆じゃない」ことも存在しないという、そもそもの違いだった。
冒頭の例でいえば、ボトムアップ型の生き方とでもいえるかもしれない。
今日は、△という形の日でした。どんな角度で、どんな色で、どんな質感だったのか、ということを深堀り、探求はするけれど、△は△のままで置いておく。明日は、▢になるかもしれないし、◯になるかもしれない。どんな色で、形でやってくるのかわからない。わからないから、たのしい。そういう毎日が好みなのだと思う。

ルビンの壺は、焦点をどこに合わせるかで浮かび上がってくるものが変わる。
どちらが主体で、どちらが背景なのか。ずらすことで、まったく別の絵が浮かび上がる。
背景だと思っていたものに焦点を合わせてみたり、主体だと思っていたものは本当は背景かもしれない。
「順風満帆」に焦点を合わせれば、その輪郭はくっきりとするのかもしれない。
「順風満帆」が背景の中に溶け込んでいるとしたら、普段は見えていないのかもしれない。
”人は見たいものしか見えない”というのは、そういうことなのかもしれない。
私にとっては、日々のディティールこそが主体である。ただ、多くの人にとってそれは取るに足らない背景としてうつっているのかもしれなくて、そうであるときに会話が噛み合わないのは必然といえる。
”噛み合わなさ”はスルメみたいにずっと味がする。飲み込むまで噛んでいられる。噛みすぎると疲れちゃうんだけど、適度なところで飲み込めるば大丈夫。いつ飲み込むかは自分で決めればいい。
ときどき、ぜんぜん違う世界の人と話すのはとってもたのしい。ひとりでは凝り固まってしまう視点も、ほぐすように柔軟にしておきたい。
今週もたのしかったなあ。







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