概念としてのお店

お店って、なんだろう?
モノ的な視点から見れば、お店は所有者が決まっており、その所有者の領域に”お客さんを招く・もてなす”というイメージになる。
そこで得られる価値を提供することでお代をいただき、それをもとに継続する。
お店は所有者(オーナーなり、株主なり)のものであると仮定するとき、そこに来る人は”お客さん”という位置づけになる。
たとえば、そうではなく、お店を概念的な視点から見るとする。
私のお店であれば、”STREETCOFFEE&BOOKS”という概念としてお店をみてみる。
そのとき、所有者はおらず、その概念を共有している人、したい人、偶然にも足を踏み入れてしまった人、など、そこに居合わせた人たちで”STREETCOFFEE&BOOKS”をする、ということになる。
創始者、出発点としてのはじまりは個の中にあったとしても、概念は所有できない。抽象的でゆるやかな透過性のゾーンのようなものだけが存在する。
そのとき、その場所に”お客さん”はいない。”もてなす、もてなされる”というものとは別ベクトルの、”共につくる”という場所になる。
私の「中島希」という個は、お店の中にあるときには「ナカジマノゾミ」とでもいうように、パブリック的な存在になる。中島希とナカジマノゾミは、同じ人間ではあるが、同じではない。中島希ができないことをナカジマノゾミはできたりする。
モノ的な、存在的な視点でみた中島希と、概念的な視点でみたナカジマノゾミ。
矢沢永吉の言葉を借りれば、「ボクは別にいいんだけど、YAZAWAがなんて言うかな?」ということなのだろう。
さて、話を戻して。
お店をどういう視点でみるかは、みるひとの自由である。
姿形、商品、空間の実在を「このお店である」と定義してもいい。
その向こうの、考え方や価値観、思想や概念を「このお店的である」と捉えてもいい。
いつの日か姿形が変わっても、STREET的である、とかROJI的である、とか樹木荘的である、という言葉で共有できるような概念のレイヤーを重ねることが、日々のわたしたちのできることなのかもしれない。
月曜日は、どっちのお店もお休みの日。先週のナカジマノゾミが体感したことを、中島希が咀嚼という時間なのかもしれない。そのために、きっと、つらつらとこのようなブログを書く必要があり、これは脳を整理するために必要なのかもしれない。(お付き合いいただきいつもありがとうございます。)
そういえば、樹木荘では3月22日まで、展示が行われています。
3.11ー3.22 「apartments#2」/@_everglouu
やわらかな風や、おだやかな光。五感を大切にしている樹木荘で、よりそれを体感するような展示になっていました。ぜひとも楽しんでもらえたらと思います。
今週もよき日々となりますように。










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