最後の日だとしたら

「もしかしたら、最後になるかもしれないので、、」
そういいながら、お店に来てくれた人がいた。
今週末、もし、災害のようなものが起こったら。
最後に行きたいお店に行き、会いたい人に会っている、と。
とてもいいなあ、と思った。
「今日が最後の日かもしれない」
そう思うと、ちゃんと選択をしなきゃ、と思う。
最後の夜ご飯、これでいい?最後の日、ちゃんと子どもに向き合った?今日が最後だとしたら、なにする?これが最後のいってらっしゃいだとしたら?
そう思うと、ひとつひとつの大切なものにきちんと触れたい気持ちになってくる。
もし、今日が最後だとしたら?
本当はいつも意識できていたらいいのだけれど、忙しい日常の中でどうしても意識は薄れていく。
定期的に、ほんのちょっとの危機感を抱くきっかけがあるのはけっこういいのかもしれない。
息子は、津波の映像を見てから、自分の前で地震の話をあまりしないで欲しい、という。
あの映像があまりにも怖かったのだと思う。
それでも、ひとりで寝室で、地震についての本をこっそりと読んでいる。どうして地震が起こるのか。プレートとはなにか。津波はどうやってやってくるのか。なにを備えておいたらいいのか。
彼なりに本から得る知識をもとに、一生懸命に咀嚼しようとしている。
”分からないこと”や”知らないこと”は、怖い。
だから、知って、怖さを和らげようとしているのかもしれない。(それでもやっぱり災害は怖いのだけれど)
怖いから、苦手だから、不快だから、と、自分から遠ざけて見ないように蓋をすることが、心の安定をはかる対処療法的な方法だとしたら、
自分はなぜそれが怖いのか、不快なのか、と、あえてよく見て知ろうとすることは、根本治療的な方法である気がする。
長期的に見れば、そちらのほうが有効である気がするけれど、逼迫した状態のときには応急処置として蓋をすることも必要かもしれない。
もし今日が最後の日だとしたら?
そうやって時々は自分に問うてみるのもいいかもしれない、と思った週末でした。
「今日が最後の日かもしれない」って思っていたら休日に家から一歩も外に出なかった…なんて事は起こらないのかな?
「今日を全力で生きる!」も「明日の自分に任せて今日は何もしない!」どっちも有って良いよねʬ
“分からないこと、知らないこと”は怖い
新しい仕事でも、新しく始める楽器でも同じように
少しずつ知って、なんとなく分かってくると怖さは和らぐ
なれてくると楽しい気持ちも表れ始める
逃げなかった事に対するご褒美のようだ
最後の日が来る前に、最後の日には何がしたいのかを考えておかなければ…