街と排除と

今、ありがたいことに駅前の一角を借りてコーヒースタンドを営んでいる。

駅前のお店は、元々は公共の土地。お店としての占有をできる限り最小限にしつつ、コーヒーを買った人もそうでない人も心地よく過ごせる場所にする必要がある。

この場所を借りている以上は”お金をうむ”とは別の役割も担っている。

それは、ここで生きている人の暮らしを見守ったり、サポートしたり、初めて訪れた人の案内をしたりすることで、この街ににきてよかったなあ、住んでいてよかったなあと思えるようなことが出来ればとてもいい。

駅前のお店は、内と外を隔てる境界を極力なくしたい。そう思いながら6年ほど営業してきて、そのような雰囲気がちょっとづつ根付いてきたような気がする。

「どんな人が居ていい」

そうなると、本当にいろんな人がやってくる。

ほんの少し痴呆のすすんできた人もいれば、周囲への配慮が少し難しい人もいる。自由に身体を動かしにくい人もいるし、反対に、”自由すぎる”ように見えてしまう人もいる。

そういった混沌とした場は、整った社会では失われつつあるものだから、びっくりする人もいるかもしれないし、不快に感じる人もいるかもしれない。いきなり喋りかけられて嫌だったな、と感じる人がいてもおかしくない。申し訳ないなあと思うこともしょっちゅうある。

利益の最優先を目指した場合、そのような場面は排除されるべき事柄で、”不必要なもの”として扱われる。

だけれど、金銭的利益をうまない場面だったとしても、社会にとって”不必要なもの”ということは絶対にない。善意的な、良心的な、道徳的な、という意味だけでなく。

例えば、森のような自然社会において、不必要なものなど何ひとつない。排泄物や死骸も含め、何もかもが何かしらの役に立って循環している。

利益を優先するために何かを排除した結果、バランスが崩れ、自然環境が保たれなくなり、地球全体の秩序は雪崩のように崩れていく。

関係ない、と思っている出来事同士も、何らかの因果により、関係している。

いつも、駅前のゴミを清掃してくれている近所の飲食店の方がいる。それは、直接その場面を見ていなかったとしても、街に必ず影響している。掃除してくれている姿を見た人が、”ああ、ありがたいな””自分にも何かできることはないかな”と、別の誰かに親切にしたり、その日に気持ちよく仕事ができたり、挨拶に笑顔が灯ったり、そしてそれを受けた人もまた別の誰かに何かをしたくなるかもしれない。

不必要なものなど、何もない。すべては関係している。何かを排除すればするほど、どこかで別の問題がやってくる。社会で言えば、孤独や孤立の問題だったり、福祉やケア機関の過負荷だったりする。それは、より大きな問題としてやってくる。税金や政治も絡むような、誰にとっても、無関係ではいられない形で。

だとしたらはじめから、排除をできる限りゆるめて、小さな出来事をみんなで面白がれるほうがいい。

自己利益の最優先をゆるめる方が、結果的には全体的な豊かさをもたらす。おそらく、利他を失った時から崩壊ははじまる。

駅前再開発の計画によって、いずれこの場所も営業できなくなる時がくる。その時まで、自分にできることを日々淡々と。

2025年06月16日 | Posted in お店のこと, ブログ, 最近の出来事 | | No Comments » 

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