「なぜ人は自分を責めてしまうのか」

先日、信田さよ子さんの「なぜ人は自分を責めてしまうのか」を読んだ。

なぜ人は自分を責めてしまうのか。私はそのことがずっと気になっていた。

「自分のせいで」「私が悪いんだ」といった言葉はどうしてうまれるのか。

なぜ、どう考えてもあなたのせいではなさそうなシチュエーションで、自分を登場させて否定してしまうのか。

ここに書かれていたのは、そう合理性を持たせなければ生きてこられなかった人たちがいる、ということだった。

わかりやすい身体的な暴力や、精神的ないじめ”ではない”形で行われる、善良で上質でふわふわの真綿のような「支配」がある、ということを改めて突きつけられた気がした。

”ケアと暴力は紙一重です。”

この一文を、ナイフで自分を刺しながら読む。

子の立場で読むことも、親の立場で読むことも、お店の立場で読むことも、どの方向からも読む。

突然に殴られたり、理不尽に怒られたり、感情を否定されたり、親の機嫌で言動が左右したり、不条理な世界に放り出された場合、頭の中は混乱をする。なぜ、自分はこんな目にあうのだろう。そこに合理性を持たせなければ、生きていけない。

__抜粋__

”「そのなかを生きるのにどうしたらいいか。それには、たったひとつの合理性があるんです。この言葉さえ自分で覚えていれば、そういうなかを生きることができるんです。「すべて自分が悪い」 

自分に包丁を向けられる。おじいちゃんかお父さんに首絞められそうになる。そういうときに、「自分が悪いんだ」と思えば、自分にとって説明がつくんですよ」”

_____________

そうして合言葉のように、生きるために「自分が悪いからこうなったのだ」と、自分を納得させる言葉をかけ続ける。

それはいつしか身体に浸透していく。そうすることでしか生きられなかった人がいる、ということに苦しくなる。

自分にとっては”愛”だと思っていたものが、別の誰かにとっては”支配”であることもあるのかもしれない。

自分にとっては”ケア”だと思っていたものは、相手にとっては”力を奪われていること”であるのかもしれない。

だからといって、誰も他者をケアしない社会にしたくはない。そうであるなら、自分に鋭い矢印を向け続けるしかない。

それは自分を責める矢印ではなく、自分が善良だと信じていることは、相手にとっても本当にそうであるのか?と疑う姿勢かもしれない。

自分を信頼しながら、自分を疑う、という姿勢かもしれない。

とっても勉強になる本だった。読んで良かった。

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