豊島美術館「母型」

理解や解釈ではなく、わかろうとする隙すらあたえてくれず、瞬時に身体に沁み込むような。
あれは、何だったのか。なんと呼ぶべき体験だったのか。
いまだ余韻に浸っている。
先週末、香川県の豊島美術館に行ってきました。
以前教えてもらって、いつか行けたらなあと思っていた場所。
香川まではそれなりに距離があるし、さらにそこから1時間ほどフェリーに乗って行くということもあって、行くまででもなかなかハードルが高い。
さらに美術館自体が時間予約制で、これもわたしには相当ハードルが高い。
それでも、それだからこそ、良かったのかもしれない。
豊島美術館にはひとつだけの作品が展示されている。その作品は「水」に大きく関係がある。
“地上に存在していることは、それ自体、祝福であるのか”
すべてがありのままで美しく、祝福されないものなど何もないのではないか。自然が自然のままそこに在ることも、あなたがあなたのままここに在ることも
どんなに小さなものも、光や風、舞い落ちる葉や一滴の水さえも、ただそこに存在しているということが奇跡的で喜ばしいということ。
諍いや争いの、もっともっと手前にある、すべての存在がそれ自体がもうすでに尊いのだという普遍を、器としてのあり方を、全身に浴びたような感じがした。
人も、自然も、音も、時間も、すべてが尊重されているその空間に足を踏み入れ、歩み、涙が止まらなくなり、その水滴もその世界の一部だったのかもしれなかった。
国も思想も宗教も性別も、過去も立場もすべて取っ払って、ただ目の前の生を肯定すること。愛でること。それをしたいと願っていたこと。願っていたのに、出来ない瞬間があったこと。
いろいろな思いがぐるぐると。
その場所では、すべてのものが美しく活き活きとしていました。それは私が街でみていたい風景そのものでした。







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