わからない、ということ

”わからない、というのは、わかり尽くそうとした先にある言葉でしょ?”
本で見かけたこの一文が、ずっと頭の中をくるくるしている。
誰かの話を聞きながら、まったく知らない話題だったり、自分とは違う感性だったときに、ついつい”わからないなあ”と率直な感想が浮かび上がる。そのときにさっきの一文が頭の隅をかすめる。
わたしはその話を、わかり尽くそうとしたのか。わかり尽くそうとして、それでもなお、わからないと感じたのか。どれだけ向き合おうとしたのか。その話をする、その人のことをどれだけみようとしたのか。
結局は、私たちは誰のことも”わからない”のだけれど、それは相手を知ろうとする前に自分と相手を遮断する言葉ではなくて、相手のことを知ろうとして、向き合って、手を差し出して、触れて、それでもなお”わからない”という悔しさを伴って出てくる言葉でありたい。
”多様性だからね”や”いろんな人がいるからね”という言葉も同様に。手前でその言葉を使ってしまえば、一見、自分と違う相手を受け入れているように聞こえるけれど、それは受け入れているわけではなくて切り離しているような気がする。
”わかろうとするつもりはありません”というふうに聞こえる。
受け入れることと、切り離すことは、隣同士にある。切り離したから受け入れられることもあるのかもしれない。切り離したものを両手の上に掬っているのであれば、それは切り離したまま受け入れている、ということでもある。それは、切り離したものをどこかに投げてしまうのとは異なるのかもしれない。
あなたは自分と他人の境界線を、どのように、どんな素材で隔てていますか、ということに興味がある。
やわらかい布のような素材なのか、頑丈な分厚い鉄のような素材なのか、川の水のような流動的なものなのか、透明だけれど触れられない強化プラスティックなのか、空気のように素材はないけれど距離がとんでもなく必要なのか、はたまた自分の輪郭と他人の輪郭が混ざり合っているのか、とか。
”関係”は目にはみえない。イメージの中にしかない。自分が描く”関係”と、相手の描く”関係”が大きくずれていることに気がついた時、人は崩壊したり落胆したり困惑したりする。だから、なるべく多くの境界線の素材の色や感触を知りたい。
布だと思って触れたものが鉄だったとしたら、びっくりしてしまうから。
相手に寄り添い、受け止め、受け入れ、わかろうとし、知ろうとし、尊重し、それでも波に飲み込まれないように、自分を保ち、境界線を保ちながらときどき緩め、などということをすべての人に対しては決して出来そうにないけれど、その時その時の、目の前にいる相手に対してだけは出来れば忘れないようにしていたい。
365日は難しいかもしれないけれど、カフェの人として存在している火ー土の9時から16時は、そう在りたい。意識だけは、少なくとも。









なるほど、相手と自分は違う人間なんだから「わからなくて当然!」って簡単に思っちゃうけど、「わかろうとする事」を拒否しちゃっているって事ね(その方が簡単で楽だから)
相手が思っている境界線と自分が思っている境界線が同じ…なんてことはほぼ無いのだろうから、皆んな見えない境界線を想像しながら生きているんだ
もし、相手の境界線が見えたら想像と違ってがっかりするかもしれないから見えなくてイイやʬ