ひと皿の料理から

沈んでいる時や、かなしい時に行きたくなるお店がある。

料理が美味しいのはもちろんなのだけれど、たぶんそこにいく理由はそれだけではなくて。

そこにいくと気持ちがじんわりと温かくなって、その人の料理の中に込められた”何か”を噛み締めるような、そういう時間を求めているのかもしれない。

“あなたはちゃんと世界に愛されています”

そんな味がするごはんを食べたくなる時がある。

ふだんまったくグルメじゃないし、そんなに食にこだわりは無い方なのだけれど。ふと、そのお店に行きたくなると、いま元気がなくて落ちている時なのかもしれないなあと自覚する。

一皿の中に、その人の生き方が詰まってる、みたいな料理。そういうのに出会うと、ドキリとする。

料理だけじゃなくて、デザートだってコーヒーだって、きっと、それはある。

作り手がどれだけなにかを込めても、誰にも受け取られなかったらそれは”在った”ことにはならない。

受け手が受け止めて、はじめてそれは存在として現れる。

おくる人になりたいのであれば、受けとる人にならなければいけないのかもしれない。

すでに、そこに在るものから、多くを受け取れるように。

言葉ではないことばを、見つけることができるように。

生きるって、そういうことなのかもしれない。

すでに目の前にあるものから、何を受けとるのか。

それが生き方ということなのかもしれない。

2025年12月15日 | Posted in ブログ, 私の生き方 | | 2 Comments » 

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コメント2件

  • 松島 馨 より:

    心を込めて作られたものは、きっと相手の心にしっかりと届くのだろう
    料理でもデザートでも、コーヒー、音楽、なんだって
    自分は受け取ってばかりな気がしてならない
    なにか「おくる」事をしているから「受けとる」事ができているのか?
    「おくる」、「受けとる」そんな事を繰り返しながら生きていくのが人生なのだろう

    • NOZOMI より:

      松島さん

      音楽も、たしかに。アートや表現もそうなのかもしれないですね。
      わたしも、全瞬間、地球から、自然から、人から、受け取ってばかりです。
      受け取る、ができたとき、同時におくる、もできているような気がします。

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