12月3日

コーヒーをドリップする、というのは祈りのようなものかもしれないな、と改めて思う。
細く注がれるお湯に、ゆらゆらと立ち昇る湯気。
自分のすべてをここに集める。
キラキラとした液面と、波紋の広がり。
”気を紛らわす”のではなく、むしろ悲しみに向き合い、潜っていくような。
深く深く、普段は行けない場所まで連れて行ってくれるような。
それは悲しい時間ではなく、癒えていくような時間で。「慈しむ」とはこういうことなのかと。
わたしは、これから、もっともっといい珈琲屋さんになれるような気がする。
そのときの、その気持ちを忘れないように、いつでも胸に留めておきたい。
先週の水曜日、父が亡くなりました。3日間ほどお店をお願いして、見送りをしてきました。
父は、私の決めたことをいつも応援してくれました。やりたいようにやれ!と信じてくれました。
辛かったときには、迎えにきてくれました。帰ってくる場所があったから、思いっきり頑張れました。
父は、遊びに行くといつもコーヒーを淹れてくれました。母にも、家族にも、友達にも、毎日毎日淹れてくれました。それを飲みながら「俺のコーヒーが一番うまいな」と言っていました。(なんやねん)
それが彼の”もてなし”であり、私たちはそれをいつも受け取り続けていたような気がします。
火葬を終えた帰り道、めそめそしている私に息子が言いました。
「ママは悲しい?俺は悲しくない。じいじは、居ると思う。そう思えば、ママも悲しくないと思うからやってみて。」
それは、現実を逃避する言葉ではなくて、すべてをじっくりと見届けた上で。
それでもじいちゃんはいるんだ、と。
たしかに、じいちゃんは私たちの中に居る。これからも一番近くで応援してくれているような気がしました。
わたしは、きっと、もっともっといい珈琲屋さんになれるような気がする。
目の前の人の悲しみに、一緒に潜っていけるような、そういうコーヒーを淹れられたら、と思う。
明日もまた、じっくりと、コーヒーを淹れたい。それが今のわたしにできるすべてなのだから。







お父さま、今も優しい顔でそばにいてくださっていますよ、きっと。
わたしも珈琲屋さんというものになりたいといつも想っていて、珈琲屋ですと自分のことを紹介するときには使っているので、なんだかこころがほわっとしました。珈琲屋さん、それはただ珈琲を提供するだけの人ではなく、珈琲を必要としているその目の前の人に、そっと寄り添うような、んー?寄り添うのとはまたちょっとニュアンスが違うような気もするのですが、、、。わたしの珈琲屋さんを取り巻く環境というか雰囲気に溶け込むことで、その人の何かの支えになれたら、、が近いかな?と思います。