まちの中にはカフェが必要だ

先日、今のお店の場所は8月1日が最終日であることをお伝えしました。
今後のことを心配してくれる方や、遠くから足を運んでくれた方、涙を流してくれた方、いろんな方の反応があり、ありがたい気持ちと、早く次のことを伝えられず申し訳ない気持ちと。
おそらく来週には何らかの動きがあるのでは、と思っています。
お店をするということは、誰かの日常の一部を引き受けるということ。そこには責任のようなものがある。金銭や商品の交換が行われているということよりも、”そうではないもののやりとり”の中に”この社会から消えてはいけないもの”が詰まっているような気がする。
生身の他者との遭遇。私はこの社会から消えてはいけないと思うものを、そう呼ぶことにした。
「人と人が出会う」というのは、生身の他者と生身の他者がそこ存在したことにより、それまで存在しなかった何かが生み出された状態なのではないか。
人間と人間が同じ場所に存在していたとしても「出会わない」ということもある。例えば、それぞれのスマートフォンの画面の中にフォーカスしている状態の二人は、隣同士にいても出会っていない。
私のしたいことは、店員とお客さんのみならず、お客さんとお客さん、お客さんと通行人、そういうあらゆる生身の他者と遭遇せざるおえない機会を途絶えさせない、ということなのかもしれない。
自分がつくる、というよりは本来もうすでにまちの中にあったもの。この先、ほかっておいたら消えてなくなってしまうかもしれないもの。効率主義の中では見落とされてしまうようなもの。数値化することも、価格に転嫁することも難しいもの。
あなたは今ここに生きているということ。私も今ここに生きているということ。あの人も、この人も、その人も、みんな自分と同じ血の通った人間であるということを、まざまざと見せつけられる機会。
それが想像力を育み、豊かな社会へとつながるのではないか。
または、それが失われた社会への強烈な危惧。
「なんで、あなたはまちの中にカフェが必要だということに気が付いたの?」
先日そう聞かれて、私は言葉に詰まって、何でだろうと考えた。
まちの中には、ひらかれたカフェが必要だ。そこにいる、あらゆる人を受け入れる場所が絶対に必要だ。誰もが、ただそこに存在しているだけで祝福される場所が必要だ。
言葉ではうまく表せないけれど、私の内側がそういってる。









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