名前ってなに?

「名前ってなに?
バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま」
先週久しぶりにみた映画の冒頭で出てきた言葉。
もとはシェイクスピアのロミオとジュリエットの一節。
その映画の原作は、たしか実家の本棚に置いてあった。学校の朝の読書の時間に、何度も何度も読んでいた。何がそんなに気に入ったのか、一字一句覚えていた。
『GO』は、中1のわたしには衝撃的にかっこよく、ぞわりとして、どきりとした。
たとえば、わたしが「ナカジマノゾミ」じゃなかったとして。それがなんだっていうんだろう。
たとえば、お店が「STREET COFFEE&BOOKS」だったとして。それがなんだっていうんだろう。
わたしの名前がなんであっても、お店の名前がなんであっても、やりたいことは変わらない。どう在るかは、わたしが決める。
女性とか、バリスタとか、人種とか、国とか、年齢とか、職業とか、役職とか、性別とか。そういうカテゴリーじゃなくて、そんなものはどうでもよくて。
いま目の前にいるその人をよく見て。よく感じて。境界線なんて軽々と飛び越えていけ。
そういう映画です。(ほんまか)
リバイバル上映されるまで思い出すこともなかったのに、久しぶりに映画館でみたら、セリフがすらすらと出てくる。染み込んでいる。たとえば、映画や小説そのものは忘れてしまったとしても、わたしの中の細胞に、そのエッセンスは刻まれているのかもしれない。
なにかを学んだり、誰かと言葉を交わしたり、感じたり、ひとつひとつのすべてを意識して覚えておかなくても、大事なことは自分の中にしっかり染み込んでいるのかもしれない。
そうしてさまざまな概念を取り入れたものを”わたし”と認識していて、認識しているだけで、それだってそもそも”わたし”なのかも怪しい。
わたしの持って生まれたものが、何者かに書き換えられたとして、それは”わたし”と呼べるのか。そもそも持って生まれたものってなんだ。どこからが持って生まれたもので、どこからが取り入れたもので、どこからがどこまでがなんなんだ。わたしがわたしであることすら捨ててやる!うわぁ〜〜〜!
こういう映画です。(ほんまか)
ところで、いま、なぜ『GO』がリバイバルなのか。その意味をちゃんと受け止めて考えなきゃいけない気がする。











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