自分の中にあることしか表現できないよ
先日、ある雑誌をみていた。
言葉に関する特集が組まれていて、気になって購入したものだ。
その中で、ドキリとしたのがタイトルの言葉だった。
「自分の中にあることしか表現できないよ。」
腑に落ちすぎて、ちょっと凹んだ。いろいろなものを見たり、感じたり、味わったり、ドキドキしたり、そういう時間を取れていなかったここ最近の自分の行動を省みて反省した。
少し前、カメラマンをしている弟に「どうやったら、心を動かす文章を書けるのか」と聞かれ、答えに詰まった。写真とともに載せる言葉が薄っぺらいような感じがする、ということを悩んでいたようだ。
私だって【心を動かす文章】の書き方なんて知らない。ひとつだけ気をつけていることは「本当に思っていること以外は書かない」ということだけ。それを一言で、グサリと指摘してくれるのが「自分の中にあることしか表現できないよ。」なのだと思った。【自分という枠】以上の表現はできない。なかなか、キツイ一言だ。
言葉に関しては最近1つだけ気をつけている事がある。
何かを見たときや感じの良い人に出会ったときに、なるべく「素敵!」という一言で片付けない、ということだ。
なんで素敵なのか、どこがいいと思ったのか、どんなところを美しく感じたのか。いちいち因数分解して、言葉にしてみたいと思っている。(出来ていないこともままある)
「素敵」というのは、本当に便利な言葉で、誰も傷つけない。心が動かされたことを伝えることもできる。見ている人にポジティブなイメージを与えながら、他者の存在を肯定しながら、他人の作ったものを引用して自分の価値観を伝えることができる。
対象についてさほど深く考えなくてもいい。私の場合だと、時間がなくてぱぱっと文章やお礼を書いてしまうときほど「素敵でした」という一言で終わらせてしまう事がある。
言われた方としても、全然悪い気はしない。嬉しい。だけれど、心には残らないような気がする。とくにインスタグラムには【素敵】が飽和状態で溢れており、もはやそれが通常スタンスであって、特別なものではない。
スタンプや絵文字、流行語で会話が成立してしまう世の中は、手っ取り早くて効率的だ。時間や情報を短縮してコミュニケーションがとれてしまう。それに頼ってしまう自分もいる。だけれど、本心ではそれに抗いたい気持ちのほうが勝っている。
言葉と丁寧に向き合っていきたい。
悔しさも、悲しさも、嬉しさも、愛しさも、美しさも、感動も、汚さも、嫌悪も、不甲斐なさも、絶望も。いつか、自分を構成するひとつのパーツになり得る。そう思うと、自分の身に起こるあらゆることを俯瞰して見られるような気がする。
お店に言葉の特集の雑誌置いておくので、興味あったらペラペラしてみてください。自分にとっての必要な言葉が載っているかもしれません。
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