ことばの咀嚼
封筒に入った、たくさんのお手紙が届いた。
先日、「社会人に学ぶ会」に呼んでくれた中学校の2年生からの感想とお礼の手紙だった。
深夜、ふわりと酔った状態で読み始めたものだから、いろんな感情が押し寄せてきて気付いたらポロポロと泣いてしまった。
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何かの出来事にふれたとき、それを外側から眺めて客観的に評価や判断することがある。「要約」だったり「評価」だったり「分析」といわれる類のものかもしれない。
例えば、桃太郎という話を聞いて「あらすじ」を伝えるようなもの。
もうひとつ、何かの出来事にふれたときに、それ自分の中に取り込んで主観的に取り扱うことがある。「感想」だったり「意見」だったり「考え」だったりするのかもしれない。
桃太郎という話を聞いて「どう感じたのか」を伝えるようなもの。登場人物の心情を察したり鬼側の気持ちを代弁することもあるかもしれない。
前者が「情報」だとすると、後者は「思考」かもしれない。
その2つの違いは「想像の有無」である、とも言えるような気がする。
どちらが良い、悪い、でもない。生きていくためには、どちらも必要。だけれど、人の心を掴むのは「情報」ではない。それだけは言い切れる。
出会った言葉を「情報」として捉え、評価して判断して「いいね!」をしても、学びはそこまで大きくはない。大量に押し寄せてくるその他の情報に飲み込まれ、いずれ忘れ去ってしまう。
でも、噛み砕いて咀嚼してゆっくりと自分の中に取り込んだ言葉は、いずれ自分の血肉になる。自分の中に取り入れて、想像して、考える。自分にとっての必要なワードを抽出する。そうして吸収した言葉は、ずっと残る。
その場合の言葉は「情報」というよりは「思考の材料」と言えるかもしれない。
中学2年生の彼らの感想の中に、特に胸に響いた手紙がいくつかあった。それらは、私の言葉を情報としてではなく、思考の材料として咀嚼してくれたようなものだった。話し手が不慣れでも、たどたどしくても、そのように受け取ってくれた子達がいたということに驚きと感謝しかない。
良い経験をさせてくれた朝日丘中学校の皆さん、ありがとうございました。
「どんな仕事を選ぶのか」は「どんな生き方をしたいのか」を考えること。あなたの生きたい人生を歩めるよう、心から応援しています。
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