「嫌い」の分別
「嫌いな人のことを考える時間がもったいない」という言葉をときどき聞くことがある。
わたしの左側が(そうだよね)と納得し、わたしの右側は(なんと惜しいことを!)と、抗議する。
嫌いな人のことを考えるのは、確かに時間の無駄かもしれない。だけれど「なぜ嫌いなのか」を考えることは、有益である。少なくとも、自分を知りたいと思っている段階において。
「嫌い」というのは、誰かに強制されて感じられる感情ではない。「些細な違和感」「拭えない嫌悪感」「憎悪と呼ばれるほど受け入れ困難な事象」など、嫌いにはさまざまな種類がある。
なんか嫌だなあ、なんかやりたくないなあ。そう思ったときには、おそらく何かしらの理由があり、その理由を探るべく「なぜ嫌なのか」を追求していくことは自分を知ることである。
嫌いなこと、とはおそらく自分の哲学に反していることであり、自覚していなかった自分の哲学に気付くことは、今後の人生を生きていく指針になり得る。
反対に「好き」の側から攻めていくことも出来そうではあるのだけれど、「好き」から攻めていくのはなかなかの困難を極める。なぜなら「好き」には「世間的な良い」「憧れの人の好き」「優等生的模範解答」など、さまざまなダミーが転がっている。自分が「本当に好き」なのか、自分でも理解していない場合がある。
「嫌い」について、深く探求していくとは、どういうことか。
例えば(なんか嫌いだなあ)と思う人が居たとする。そのときに(あの人嫌いだなあ、一緒にいたくないなあ)と悩むのではなく(あの人のどんなところが嫌いなのか)と考える。すると、言葉遣いだったり、行動だったり、考え方だったり何か理由がある。自分の嫌悪感を持っている言葉をよく使っている、ということが理由だった場合、なぜ自分はその言葉が嫌いなのか、と考えていく。そうすると「自分の中の主義主張との不一致」が露わになる。
ということは、自分の主義主張とは、いったいなんなのか?自分は何を大切にしていて、何を芯に持っていて、どんな感性を持っているのか、ということを知る手がかりになる。
「嫌いな人のことを考える」というよりは、「自分を考える」と言ったほうが適切かもしれない。他者を通して、自分の輪郭をなぞる。他者を通してしか、自分のカタチを知ることは出来ない。自分と世界の境界線を引くのは、他者の存在である。
そうしていくと「嫌いな人」とは自分の主義主張と別の主義主張を持っているだけで「一方的な悪い人」でもない、ということに気付く。自分にポリシーがあるように、相手にもきっとポリシーがある。
もし、意地悪な人がいたとしたら、その人を追い詰めているかもしれない「別の何か」があるのかもしれなくて、それが何かはわからないけれど、きっとそういうことなのだ。
そこまで考えていくと、嫌いだと思っていた人のことが、意外と嫌いではなくなっていく。自分を守る方法は、遮断することと具体的に想像することの二種類がある。遮断することは「相手のことを考えない(無いものとする)」のであるのに対し、想像することは「相手の向こう側に透けてみえる自分を見つめ、相手の背景を想像する」ことである。
この嫌いを考察する工程は、何かに似ている。ゴミをゴミ箱捨てるときに似ている。いろんなゴミがガサっと入ったビニール袋を、ゴミ箱に投げ入れて、バンっと蓋をする。スッキリして、目の前は綺麗さっぱりする。これが「嫌いな人のことは考えない」というゴミ捨て。
一方、ガサっと何かがいっぱい入ったビニール袋を開いてみる。これは燃えるゴミ、これは燃えないゴミ、と分別して然るべきところに分ける。一見面倒くさい。けれど、これはこれでスッキリする。後ろめたさもない。これが「なぜ嫌いかを考える」というゴミ捨て。
バンっと蓋をするゴミ捨ては、いつかゴミ箱がいっぱいになったときに、溢れてくることがある。止めどない感情が溢れてきて、その理由が自分でもわからないことがある。中身がごちゃごちゃのまま捨ててしまったのだから、当然と言えば当然である。それを一から分別し直すのは、時間がかかる。
普段から分別しておくと、整理がついているから、すぐに収集所に持ってくことができる。感情の整理をしておくことは、忙しい現代人において、意識的にしなければ出来ないことかもしれない。だから、常に多少の余白を残しておく必要がある。その余白で、自分の感情を整えておく。
詰め込みすぎてはいけない。余白を持つことが、人間として生きていくには必要だ。それは、自分の輪郭を把握することにつながる。
ところで「好き」と「嫌い」の話に戻るけれど、生きてきた中で一番原始的な「好き」「嫌い」は、食べ物ではないか、と思う。「美味しい」と感じるか「美味しくない」と感じるかは、個人の自由。誰にも否定されるべきではないパーソナルな領域。
ときどき「嫌いな食べ物が多い」という人に出会う。アレルギーで食べられない、生理的にどうしても受け付けない、の「食べられない」ではなく「食べられるけれど嫌い」といった類のものである。個人的には、嫌いな食べ物が多かったとしても、人生損してる!とか、わがままだ!とか、そういうことは全く思わない。そういう次元ではない何かを感じる。
もしかしたら「嫌いな食べ物を主張」することは、その人が生きる上で必要な工程だったのではないか。好きなことを、好きだと言えなかった。やりたいことを、やりたいと言えなかった。やりたくないことを、やりたくないと言えなかった。もし、仮に、小さいときにそういう状況にあった場合、「この食べ物は嫌いだ」と主張することで、自分の中の「自我」を守ってきたのではないか。誰にも否定できない領域の「自我」を守ってきたのではないか。
「嫌いな食べ物」は、小さな時のあなたが、必死に生きてきた証ではないか。
もし、そうだとしたら。もう大丈夫だよ、と幼い時のあなたに伝えてあげてほしい。
「お肉とお魚が全部食べられない」という女の子に出会ったことがある。数年後、その子に会った時に、苦手だと思っていたほとんどの食べ物を食べられるようになっていた。妊娠、出産して味覚が変わった可能性もある。だけれど、家を出て生活環境が変わり、愛するものを愛していると伝えてもいいと知ったから「嫌いなものを主張することで自我を守る必要がなくなった」ということも関係しているのではないか。(ちなみにこの説は、何かの文献を参考にしたものではなく、何人かの話を聞いていく中で勝手に導いた個人的な推測の域を出ない。これからも調査を続行していきます。)
嫌いなものって、モヤモヤしているとネガティブなもののように思えるけれど、こう考えてみると悪いばっかりのものでもない。分解していけば、怖いものでもない。
わたしは、嫌いなものが、案外好きです。嫌いなものが好き。嫌いなものも、好きになる必要があるのではなくて、嫌いなものを嫌いなままで、それを眺めるのが好きです。
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