不便益のこと

樹木荘は、不便で溢れている。
駐車場は無いし、会計は現金のみで、コーヒーはあるけれど食べ物はない。作業ができるような大きな机もないし、Wi-fiもない。電源もない。
ないもの、ばかりの不便なお店。
でも、だからこそ、得られるものもある。
例えば、駐車場がないために、車が砂利の上で切り返す音がしない。車の音が最小限。エアコンがなく窓を開け放しているため、風鈴の音が聞こえる。雨音も聞こえる。コーヒーの音も聞こえる。
電子決済の不自然な効果音がしない。
メニューに食欲を掻き立てられない。
光が最小限で、ほとんど自然光なので目が疲れない。四季や天気や時間による陽の変化を楽しめる。Wi-fiが無いからパソコン作業の仕事をする気にならない。(本当は、電波自体もなくしたいと思っている)
半強制的にOFFに近い状態になれる。
コーヒーが瞬時に出てこないから、作業工程を目の前でみざるをえない。じっと集中して深い観察をすることはディープルッキングと呼ばれ、瞑想によって心の状態の整えたり、想像力を育む。
こういった不便の一つ一つに理由があり、何を大切にしたいかと考えたときに、樹木荘においては「不便だからこそ得られるもの」を重視している。
不便だから得られるもののことを、不便益という。
今の時代、快適であることがものごとの基本となっていて、より良く、より快適に、とサービスや質を向上させることが求められている。
だけれど、本当にそれがすべてなのか?と、疑問も湧いてくる。
快適さが邪魔しているものはないか?便利になることで見えなくなるものはないか?不便は悪か?快適さと引き換えに、犠牲になっているものはなにか?
すべての物事はトレードオフ。自分の便利と引き換えに、どこかの誰かの何かを奪っている可能性もある。自分自身の感性を奪っている可能性だってある。
とはいえ、真夏の樹木荘は、やっぱり暑いです。
ただ、昔ながらの構造のためか、窓をすべて開け、風を通すと体感としてはそこまで暑くはない。(涼しいとはいえないけれど)
できる限り精神を静かに保ち、風の気配に耳を澄まし、もしよければ暑い日にお渡ししている氷嚢を手首に当てて、じっとしていると次第に汗がひいていく。クーラーの部屋で調子が悪くなってしまう人(私のような)は、もしかしたらちょうどいいと感じるかもしれません。
サウナ、ではないけれど、じわじわとした温活のような。
どうしたって冷える場所が多いこの季節。クーラーの尖った冷気は体に堪えるし、だからといって暑すぎるのもしんどいし、難しい季節です。どちらかといえば午後のほうが暑いので、朝のじんわり温活はけっこう気持ちいいかもしれません。(個人差大アリですが)
そんなこんなで、樹木荘は圧倒的に不便な場所です。タイムトリップしたように感じるかもしれません。
仕方無しに不便を選んでいるのではなく、不便益を楽しんでいる。そういうお店です。
不便を楽しみたい。そう思ったときにはぜひとも。
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コメント4件
樹木荘には「無い」が「有る」
ろうそくの炎の揺らぎや段差も有るから「有る」も結構ある
氷嚢を帽子と頭の間に置いて姿勢を正せばエアコン以上のヒンヤリ感を感じられるʬ
どの席がより涼しく過ごせるか試してみるのも面白い
観測器の騒音レベルを見ても「街なか」よりもはるかに低い数値を示している
樹木荘には非日常の静けさと癒やしが「有る」
樹木荘、いいですよね。
あそこにあるのは「涼しさ」というより「涼やかさ」。あと、ちょっとした“あきらめ”みたいな空気感も心地よくて。Wi-fiがないのも「あ、そういうとこなんだな〜」と受け入れられる。不便というより、もう潔さですね。スタバだったらクレーム案件ですが(笑)
とカッコつけつつ、前回は裏のベンチでスマホでテザリングしてパソコン開いてました。
最近、「便利」とか「不便」とかの区分けさえ、大きなお世話と思うこともあります。
便利が正義、不便は不幸、みたいな空気あるけど、実際のところ“なんかちょうどいい”って感覚は、どっちにも属してない気がします。
あと、なんでも定義づけすればいいってもんじゃないと思います。個人的には定義すること自体は好きな方で、定義づけのために考えることは大切だと思いますが、定義づけされた後に思考停止になることで違和感が大量発生しているような気もします。
そういう意味で、定義不能(定義不要?)な時間を楽しみに、また樹木荘に行ってみようと思います。