世界を自分に馴染ませる

「それ、おれの一部だから捨てないでね!」と息子がいうときの”それ”は、切った髪の毛だったり、伸びた爪だったり、抜けた歯。
ほかにも、”おれの描いた絵”だったり、ママがくれた手紙(メモ)だったり、パパのくれた小道具だったり、保育園の先生が書いてくれたお誕生日のあれこれだったり、赤ちゃんのときのおもちゃだったりする。
”おれ”を拡大していくことで、今のところ彼の自我は保たれているのかもしれない。
(さすがに髪の毛や爪は庭に掃き出して、有耶無耶にしている。)
おれを拡大していく。その感覚は、ある意味でいえば自分という痕跡を地球に蒔いていくということで、”自分”を”世界”に馴染ませていくことかもしれない。
自我を拡大していくことが世界とつながることであるならば、自我をできる限り縮小していくこともまた世界とつながることでもある。
あらゆるものを自分の中から抜いていった時に、自分の輪郭側から世界がじわじわと侵食してくる感じがする。どこまでも受動的で、沁み込むような。”世界”を”自分”に馴染ませているような気がする。
自我の拡大は傷つく可能性が高い。
そこらじゅうに蒔いた自分を、誰かが踏んでしまうとも限らない。悪気なく捨てられてしまうかもしれない。”自分”をたくさん散りばめるほど、面積が増えれば増えるほど、その可能性は増えていく。
(案の定、私は彼のお気に入りの小道具、ペットボトルの蓋だったり牛乳パックや輪ゴムを悪気なく捨ててしまい、そのたびに悲しそうな顔をしている)
自我の拡大は、大切なものをたくさん持つこととも言えるかもしれない。
自我の縮小は、自分が外部環境と完全に馴染み、まるで自分の身体が透明になってしまったかのような感じがする。そのときの時間の流れはとても穏やかで心地が良い。
自我を縮小していくとは、大切だと思っているものを手放していくことかもしれない。
「俺の!」という主張は”自我が奪われそうになること”への抵抗かもしれない。
いつの日か、そんなに主張しなくても誰も奪わないし、君の存在は所持している物質によってなど決まらない、ということを感じるかもしれないし感じないかもしれないけれど、今もしその抵抗が必要なのであれば力のかぎりしたほうがいいのだと思う。
なるべく、君の蒔いた痕跡を傷つけないように。
「おれの一部」は無限に増えていきそうですね
他人には「ごみ」に見えても本人にとってはとても大切なもの
自我を主張し過ぎると「嫌なやつ」と思われてしまいそうだし、主張が足りないと「自分」が自分ではなくなってしまうだろう
程よく世界と繋がって「自分」を見失わない様に過ごせると良いのだけれどね