パブリックとカフェ

屋外でお店をするなんて大変だね、とよく言われる。
天候に左右されるし、気温によって身体がしんどいときもある。湿度にも紫外線にももろに影響を受け、台風などで営業できないときもある。
お客さんの居心地だって、環境的な意味で言えば決して良くはないだろう。
それでも、外で営業することの良さもたくさんある。
風通しも見通しもいいこと。敷居が低い(ない)こと。みんなで日々変化する季節を味わえること。
なにより、パブリックであること。
この”パブリックである”ことは、私の中では最重要な要素かもしれなくて、まちの中にパブリックな場所をつくりたくてカフェをしている、とも言える。誰もが見つけることができる駅前で。
仕込みや調理をしないのは、仕事をしている時間は常にまちを眺めていたいからであり、誰かの異変に気付く可能性を高めておきたいからであり、自分の小さなキャパシティに余白を残しておきたいからとも言える。
どんな人も排除せず、受け入れながら、別の人の居心地も守り、なるべくルールを作らず、その都度イレギュラーに対応し、その上で潰れないように成り立たせることが、いつまでもできるとは限らない。なにかのバランスが崩れれば崩壊する。そもそも完璧に、なんて到底出来ない。
公共と個人店を両立することは、バランス感覚を問われることでもあり、資本主義に対して自制心を持って取り組むことでもある。
資本主義に対して自制心を持って取り組むこと、は、「売れなければならない」けれど、「売れればいいということでもない」ということで、誠実さを放棄しないということで、自分たちの引き起こしている”よくないこと”にも目を瞑らないということで、自分たちの加害性に自覚的であるということで、そのうえで大切にしたいことをさせてもらうということで、謙虚さを忘れてしまったら終わりなのだと。
”自分たちはいいことをしている”という自負と、それでも誰かの自由を奪っているかもしれない、という想像力と。誰かを救っているかもしれない一方で、誰かを傷つけているかもしれないということを、常に心に留めて営業していたいと思う。
自分だけでは、自分たちだけでは、継続出来ていなかったかもしれない。いつも来てくれる方々が、一緒にまちを見守っていてくれて、困った人を助けようとしてくれて、隣の誰かを支えてくれて、なんとか成り立っている。
6年続けてこれたことに心から感謝しつつ、これからも穏やかにやっていけたらと思う。
そんな駅前のコーヒー屋さんに「何かのついでに」ではなく、「わざわざ出向く」人がいるとかいないとか…
雨の日に狭い軒下で僅かな時間を過ごす
なんて豊かな時間なのだろう
周りを気にしながらも自由に過ごせる素敵な空間、こんな場所で過ごせる日々がずっと続けばいいな