曖昧な世界へようこそ
曖昧…わかりにくく、はっきりとせず、不明瞭な様。捉えにくく、二通り以上に解せられること。白黒を分けずに、グレーであること。
私は、曖昧の世界の住民だと思う。
青からオレンジに向かっていく、じんわりとした空の色。エスプレッソとミルクがが混ざリゆくカフェラテの侵食感。公共と私有がはっきりとしないゆらいだ空間の雰囲気。仕事とプライベートの境界線のない半同一感。「お客さん」と「お客さんじゃない人」の不明瞭さ。
「曖昧が好き」というよりは「くっきりとした線引き」が苦手、という方が適切かもしれない。
人と人が存在している以上「自分」と「相手」という境界線はどこかには存在している。両者が距離をとって存在している時には、その線がどのあたりにあろうと、さほど問題にはならない。問題は、両者が近づいた時である。今まで認識していなかった境界線が、思っていたよりも太くくっきり引かれていた時に、ただならぬ気配を感じてたじろいでしまう。
仕事が絡むとき、金銭が発生する時、決め事として「線を引く」というのは、とても重要であるように思う。それは後から揉めないため、ともいえるし、関係を継続させる予防線ともいえる。ビジネスにおいて、あらかじめ線を引いておくことは大切なこと。
だけれど、個人的には、生きていく上では、必要以上に線を引きたくははいと思っている。区分けしたり、選別したり、名前をつけなくていいこともある。臨機応変に対応できるように、輪郭をぼやかして、流動的であってもいいはずだ。(それには、自分の芯にある境界線をしっかりと認識しておく必要があるし、把握して、操縦できなければいけないけれど。)
太くくっきりと引かれた線の中で生きるのは、窮屈だ。
「この線の中のこと以外考えなくてもいい」「枠の中のことだけやればいい」誰かがそう定義した中で生きていれば、揉めることはないし、怒られることもない。人に嫌な思いをさせてしまうこともないかもしれない。余計なことを考えずに済むのかも知れない。
だけど、それでいいのだろうか。
私は、ときどきはみ出したり、滲み出たりしたい。誰かの滲み出たものも、混ぜたり馴染ませたりしたい。相反するものにこそ、グラデーションをつけたい。滲ませて、重ねて、ぼやかした水彩画のような、下に塗った色が透けてゆっくりと深みが出るような。そんな風に生きていきたい。
線を引いてあげる優しさも、曖昧でいる厳しさも理解した上で、そうやって生きていきたい。
先日読んだ本に「グレーでいることは、中腰でいること。筋力がないとできないこと」という表現が出て来たのを思い出す。立つのではなく、座るのでもなく、中腰でいる。中腰のままでいるのは、結構大変だ。はっきりさせないことは、労力を使う。だから、鍛える必要がある。毎日、人と対話する中でトレーニングする必要がある。
でも、そうまでしても、そっち側の住民でいたい。
わかりにくいこと、白とも黒ともいえないこと、分類できないこと、言葉にできないこと、定義できないこと。そういった曖昧なものを大事にしていきたい。
曖昧な世界、けっこう居心地いいですよ。気が向いたら、是非とも。
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コメント4件
白か黒か決められない人が優柔不断なグレーっていう見方が多いかもしれないけど、筋力や労力を使ってグレーでいるのは、むしろ攻めの姿勢ですね。
そう考えると、「白か黒」の反対が「グレー」なんじゃなくて、「意志を持って白か黒かグレーを選ぶ」の反対に、「考えたくないから白黒はっきりした答えが欲しい(自分は思考停止)、あるいは決めたくないからグレー(思考逃避)」があるんだと思います。
特に最近は得られる情報も多いし、多様化みたいなことも言われているので、ますます白か黒の二択で済むことは少ないのかも。だから堂々と曖昧を選択して、曖昧でいるために体力も知力も付けておくことが大切だと思いました。
マジックアワーにコーヒーとミルクの混ざり具合、美しいグラデーションの白黒つけない感じが心地よいですね
「お客さんじゃない人」に私も入ってたりするのかな?
平日はお客さん、土曜日はつむちゃんの大きなお友達とか?ʬʬʬ
人と人との境界線は空間を完全に覆ってしまうバリアみたいな物ではなく、足元にうっすら境界線は有るのだけれど、上の空間はある程度自由に行き来出来る流動的なもの…そんな境界線が良いですね
境界線が目に見えたら楽しいかな?……いや、自分が思ってた以上に太くてクッキリとした幅の広い境界線が見えたらショックなので見えない方が良さそうですʬʬʬ
私もグレーな中腰の世界で生きて行こうと思う