変の編
変なお花をみると、つい買ってしまう癖がある。
変なお花に出会いたいから、変なお花の置いてありそうな個性的なお花屋さんにはつい足が向いてしまう。
「あの人、なんか変よねえ」と低いトーンで囁かれる場合、その人をあまり歓迎していないというニュアンスを感じる。その場合の「変」は「変わっている」という意味合いで、ひそひそと囁かれた場合には陰口とも受け取れる。
ところで、この他人の様子や装いを「変」という一言で表現するのは、やや乱雑すぎやしないか、と近頃は思い始めている。なぜ変なのか、どう変なのか、を感じ取ることを放棄している気がする。「変」とは相対的なものであるが故に「なぜ変なのか」と考えることは、自分にとっても無関係ではないはずだ。
駅前という立地的なものなのか、店主から滲み出た「変」からなのか、STREET COFFEE&BOOKSはやや「変な人」と遭遇する確率が高いように思う。
「ぬぉ、、この人はなかなか変だ、、」という人に出会った場合、どう変なのか、なぜ変だと思ったのか、をよく観察することをおすすめしたい。それは「変」という一言で大雑把にまとめていた部分を、「変」という言葉を使わずに表現してみる、という試みである。
そもそも絶対的な「変」などというものはなく、相対的な「変」しかこの世の中には存在しない。「変という集合体」に放り込まれた「ふつう」は、もはやふつうではなく、そちらが「変」ということになる。
そう考えると誰かのことを「変な人」と感じた時に、もしかしたら、変なのは相手ではなく自分なのではないか、という可能性も大いにありうるということになる。
そもそも、人と深く関係を築いていくと、大抵の人と「合致しない価値観」が出てくる。それを自分側からみた場合「変わっているな」と思うのだけれど、相手も同様に「変わっているな」と思っている可能性が高い。知れば知るほど、すべての人は自分とは違う「変」が出てくるし、それは同様に自分の「変」を自覚していく作業でもある。
自分以外の価値観を「変」とした場合、それは世の中のすべてを「変」と言っていることと同様になり、「変の集合体」である世界は、もはや変でも何でもないのである。
今日も、お店の中で一際目立った変わったお花をふたつ購入した。私的には、見たことのない変わったお花だと思ったのだけれど、お花に詳しいお花屋さんからしてみたら「変なお花」なんかじゃなく、固有名詞のついた、ただただ個性的で愛おしい〇〇というお花、であるだろう。
ちょっと変わった人たちを知れば知るほど、個性的で愛おしい〇〇さん、ユニークでお茶目な〇〇さん、とカテゴライズできない固有性で捉えてしまうのも、きっとそういうことなのだろう。
世界は細部を見れば「変の集合体」である。自分もその一部だということが、たまらなく嬉しい。
関連記事
コメント4件
『変』って言われるとちょっと嬉しい『変な人』です。
自分の中では『変』=みんなと違う。最高だね!
みんなと違う思考を持つってすごい大切で
違う角度で物事をみてたり、先入観がなかったり。
戦いがあるとしたら、『変』がいないと作戦バレバレだしね。即全滅。
『普通』=『多数派』な感じで考えてます。
正解とか不正解とかじゃなく、その考え、やり方が
多いってだけ。おかしいと思われてた事が認められて
みんなやり出したら、それが『普通』になっちゃう。
最近は全然『変』じゃない自分が面白くないなぁ。。。
珈琲飲も。
「変なお花をみると、つい買ってしまう癖がある。」……うん、そうだろうなと思ってましたʬ
珍しいお花(植物)に惹かれる気持ちわかります
なんか可愛くて愛おしく感じるんですよね
お店に飾られる選ばれし「変」なお花、いつも楽しませてもらっています ありがとうございます
私はお庭でミニトマトを育てていますが「普通」のものではつまらないので 、ちょっと「変」な「トスカーナバイオレット」という赤紫色でぶどうの様な食感の実がつくものを選びました
「変」なことは「悪」ではなく「個性」なんですよね
さあ、観察されにお店に出掛けようか…