上も下もない、あるのは役割だけ

先週は、豊田大橋の下で行われる橋の下音楽祭でした。3日間、日本各地から(海外からも)たくさんの人が豊田大橋の下にやってきて、音楽やお酒を嗜みながらのびのびと過ごしていて、自由で広大で非日常的、ハレとケでいえば思いっきりハレの週末でした。
私は毎年の如く駅から歩いていくみんなを見送り、営業後に自分もてくてくと。
橋の下って、なんなんですか?と聞かれて、なんだろうなあと考えていて、”お祭り”とも”フェス”とも、”イベント”というのも少しもの足りないような気がして、そういう外側の形状ではなくて、内在している”生き方の現象化”みたいな、ハレだからこそ表出される幻、みたいな。そういうものなのではないかと。
”上も下もない。あるのは役割だけ。”
橋の下でよくいわれる”役割”という言葉が、とても好きで。
すべての人には、上も下もなく、例えば会社の社長だろうが社員だろうが、役割の違いはあれどみんな同じ。社長には社長という役割があるだけで、上の立場というわけではない。
子どもには子どもの役割があり、親には親の、役所には役所の、コーヒー屋にはコーヒー屋の役割があり、誰が偉いわけでもなく、ただそれだけなのだと。
それは、何かを「目指す」というよりは自分の役割に「気付く」というようなものかもしれなくて、自分の役割はなんだろう、と今この瞬間に手にしているものから思い返していけばいいだけで、それは”すごいこと”とか”憧れられること”ではないかもしれないけれど、”今自分にできること”を精一杯やるということで。
私には、私の役割がある。
誰もがそのことに気付き、何者でもない自分であり続ければいい。
私の役割は、街と人を見守ることで、それはいつか変わっていくかもしれないし変わらないかもしれないけれど、今自分にできる精一杯をすればいい。
「俺たちには目標なんて何にもない。今やりたいことを全力でやっているだけ」
その言葉が最高にかっこよかったなあ、、。
あんなにたくさんのいろんな人がいるのに、大人も子どももみんなが笑っていて、誰も窮屈そうじゃなくて、制限やルールではない秩序のあり方を考えさせてくれるすごい場所なのだと改めて感じました。
橋の下が教えてくれることは五万とある。表面的なお祭り騒ぎということではなく、その奥にあるイデオロギーみたいなところが最高にぶっ刺さる祭りです。
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