思考の眺望

なんで、自分はこう感じるんだろう?と思っていたことを深堀りしていったら、ぐるりと捻れてしまったのだけれど、一周まわって正面に戻ってきた、ということが時々ある。地球の上をずーっとずーっとまっすぐ歩いていたら、また日本に帰っては来たのだけれど、歩く前と帰ってきたあとでは、世界の見え方が違う。そういう感じ。

昔から、疑問に思っていた言葉がある。

『かわいいね、と言われたときには「ありがとう」と素直に受け取ればいいんだよ』という言葉。なんだか分からないけれど、全然腑に落ちなくて、もやもやしていた言葉である。

「かわいいね」と言われたときに「いえいえ、」と返すのは、はっきり言って謙遜ではない。謙遜ではなく、受け取りの拒否である。もちろん「かわいくない」と言われたときにも、出来れば受け取りを拒否したい、と思っている。

それは「かわいい」とか「かわいくない」という概念を拒否しているのではなく、「頼んでもいないのに勝手にジャッジされること」自体に対しての腑に落ちなさ、である。

なぜ、頼んでもいないのに、判断されなくてはいけないのか。それに対して、なぜ有難がって受け取らないといけないのか。よかれと思って渡した贈り物なのだから、ありがとうと受け取るべきだ、という理不尽さ。

そもそも、なぜ相手は自分自身を「評価する立場」であると思っているのか。思い返せば学生時代から、そういうことはあったはず。私だけでなく、ほとんどの人がきっとそうだ。頼んでいない土台に勝手に乗せられて、評価され、さらされ、比較される。

「全然かわいくないじゃん」「あっちのほうが好み」など、聞いてもいないのに傷つけられることもある。告白していないのに振られる感じ、なんなん。

そういったことへの、疑問と不可解さとして「いえいえ、、」とやんわり拒絶していたわけであって、謙虚な奥行さしさから否定していたわけではない。

そこまで考えて、いや、待てよ、、とハッとする。

待てよ。私だって同じことをしていないと言い切れるのか、、??

保育園児が手をつないでお散歩しているときに思わず口にでた「かわいい〜!」という言葉。若くて可愛い女の子に対して思わず「ほんとにかわいいねえ」と漏れてしまった感想。息子に対して「かわいいかわいい」と連呼し、写真を撮る自分。

そのときの自分は、相手を「評価している」などという意識は微塵もなく、思ったことがそのまま言葉として溢れ出てしまった、としか言いようがない。罪の意識など毛頭ない。

その溢れ出てしまった言葉に対して、「評価するな!」「ジャッジするな!」と中指をたてて言われてしまったら、相当に凹む。ごめんね、そんなつもりはなかったのだ、と弁明する。悲しさにいたたまれなくて寝込む。

つまり贈り手には、悪気はない。受け取り手だけに、違和感がある。自分の被害性には敏感であるのに、加害性には鈍感である。無自覚に誰かの人間性を無視していることがあるかもしれない。

そう考えてみると、これまで私に向けられた言葉だって「判断された」のではなく、「溢れ出てしまった」だけなのかもしれない。そうなってくると、褒められた言葉に対して、もう少し素直に受け取れそうな気がしてくる。「この人は心の声が溢れ出てしまっただけなのかもしれないな、ありがと」と、捻くれずに受け取れる。

いつも読んでもらっている方には周知の事実かもしれないけれど、私はなかなかにめんどくさい人間である。自分の中で消化できないことを永遠と考えていて、その都度、それらしいこたえを導き出すのだけれど、その時点ではそれがこたえなのだけれど、本当にそれが100%自分の内面を言語化できているのか?その時点では分からない。今の時点の100%です、としか言いようがない。いつか、もっと別の言葉が出てくるかもしれない。

今回の話だって、伝わりにくい部分だし、誰かを嫌な気持ちにさせてしまうこともあるかもしれない、とは思いつつも、誰かの「無自覚」から「自覚」へのきっかけになるかもしれないし、自分の中の整理として記すこととした。誰かを責めたいわけではない。むしろ、これまでより素直に言葉を受け取れそうな気がして、考えるきっかけをもらえて非常にありがたい。

「差別はたいてい悪意のない人がする」というタイトルの本は、とても秀逸なタイトルだと改めて気がついた。

知識が増えたら、思考の幅が広がる。いっぱい知りたいし、いっぱい感じたいし、いっぱい考えたい。ぐるっと思考を一周させて、見える景色を増やしたい。

ずっと同じ場所にいた自分と、ぐるりと一周してきた自分では、外見上はなにも変わらないかもしれないけれど、確実に違う内面になっている。自分だけはそのことを知っている。

考えることは、何一つ無駄ではない、と断言できる。

えいっ、と勇気を出して投稿ボタンを押す。雨の日の月曜日の朝。

2022年07月03日 | Posted in ブログ, 最近の出来事, 私の生き方 | | 4 Comments » 

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コメント4件

  • norisan420 より:

    地球の上をずーっとずーっとまっすぐ歩いていたら、また日本に帰っては来たのだけれど、歩く前と帰ってきたあとでは、世界の見え方が違う。

    朝からズキュンときました。
    ホント自分なんてちっぽけな世界でもがいてる。
    もっと視野をひろく、心広く、お日様みたいなでっかい
    人間になりたい。

    先週のお日様は酷かったけど・・・

    今週も寄り添って生きようと思える朝でした。
    ありがとう。

    • NOZOMI より:

      norisan420さん

      わたしも、本当にそう思います。
      すべての視野を網羅することなんて絶対にできないけれど、だからといって見てみようとすることを投げ出したくはない。

      自分は、まっとうだ、無害な存在だ、なんてことはありえない。
      それだけは忘れないようにいようと思います。

  • 松島 馨 より:

    私も「かわいいね」ってよく言われるのでお気持ちわかります(嘘(笑))
    「かわいいね」って言ってくれる人はジャッジしているつもりはなく、「好意を伝えたい」だけなのかもしれません
    嫌いな人には「かわいいね」なんて言いませんからね
     
    お店に行く度に「かわいいね」って心の声が溢れてしまったらごめんなさい(笑)

    自分の考えはこうだけど、あの人の考えは自分とは異なる
    あの人は自分とは違うのだから分かり合えない
    …のではなく、何故その様な考えなのかを考えるのも難しいが楽しそうだ

    えいっ(送信エラーで全て消えません様に)、と勇気を出して投稿ボタンを押す
    雨の日の月曜日の午後

    • NOZOMI より:

      松島さん

      なぜ?を問うことは楽しいですね^^!
      子どものなぜ?なぜ?も、最近では問いのクオリティが上がってきて私も楽しんでいます。笑

      好意を伝えたい、ふむふむ、なるほどなるほど。
      たとえば、上司や目上の人に「かわいい」と伝えるのはなんとなく気が引けるような気がします。
      その理由は「失礼だから」。

      反対に、自分より年が若かったり、子どもに対しては気軽に使ってしまう。

      私個人の問題でもあるけれど、ジェンダー的な問題でもある気がします。
      (考えていくとおもしろい^^)

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