循環と停滞
自分のところに巡ってきたものを、循環させるか停滞させるか。
自然界と人間界の大きく異なる点はここかもしれない。
自然界ではいろいろなことがうまく回っているのに、人間の社会はうまく回らない。人間がいることで、生態系が崩れたり、環境破壊が起こる。悲しい思いをする人がいたり、誰かの犠牲の上に、別の誰かの便利や満足が成り立っている。
なんでそういうことが起こってしまうのだろう?と、ある時から考えていた。先日みつけた福岡伸一さんの本「ゆく川の流れは動的平衡」の冒頭にヒントがあるような気がしてならない。
植物は、自分にとって必要最低限のものを摂取し、過剰に生み出したものはすべて社会に還元させている。自分に必要な水や養分を吸って、成長する。その過程で二酸化炭素を吸って、酸素を生み出す。酸素に固執して溜め込んだりはしない。
自分が存在することによって生み出した副産物については、停滞させることなく世界に贈り出す。
植物だけでなく、野生動物もそうかもしれない。自分にとって必要最低限のエネルギーは摂取しても、それ以上には蓄えたりはしない。そして、自分が摂取したことで排出したものが別のなにかの養分となる。自分が存在することによって生み出した副産物を囲い込んだりしない。自分のものだけにしない。
副産物から、新たに別の循環が生み出されるような仕組みになっている。
自分は傷つかない。そして、周りも壊さない。それでいて、ちょうどいい循環が生まれている。
人間は、どうだろう?
余剰に生み出したものを、自分たち(会社や家族や地域など)のなかで蓄えようとする。不安な未来に対して、溜め込もうとする。それはお金かもしれないし、技術かもしれないし、他の何かかもしれない。それは「循環」とは対極にある「停滞」ではないだろうか。
自分が生きる上で生み出された副産物について、自分のものだと勘違いしてはいないか。自分のところに巡ってきた「資源」に対して、固執してはいないか。
自分が多くの人と接する中で得てきたものは、自分だけのものなのだろうか。
資本主義とは別の流れで、社会に循環させることは出来ないだろうか。
先日、豊川でハンバーガーの移動販売をしているアーリーグッドの有吉さんと久しぶりに話をした。彼は、ときどき海辺や川辺で「フリーハンバーガー」をしていると言った。それは、思いがけずハンバーガーを贈られるという体験を通して、自分が得たものを停滞させず、社会に循環させる行為なのではないか、と感じた。
自分が得たものを社会に還元する。私にとっては、今のお店の思想を「社会福祉」にほんの少し近づけることで成し得ようとしていることだった。手段は違えど、きっと芯にあるものは近い。
「お金が腐らない」ということで生じる、社会に対する問いかけの本を何冊か読んだことがある。「停滞」のもとを辿れば、きっとそこに行き着く。知識ではなく体感としてそれを感じはじめている。
「行き過ぎた資本主義」ではない形で、それでも自立・持続可能な形で、植物の知性に習ったような形で、ひっそりとなにか出来ないかなあ。そんなことを考えている。
そんなことを考えている時間は、わくわくして心地よい。
そういえば、いつも話しているあの人は「幸せとは副産物だ」と言っていた。何かを一生懸命やった先に、たまたま生まれたものが「幸せ」だ、と。求めると、手に入らないよ、と。お金や、人との繋がりも、そうした捉え方は出来ないだろうか。自分の人生を思うように生きて、まっとうした時に、発生してしまうかもしれないもの。たまたま生まれたもの。
目的的に得たものは、手放したくない気持ちがどうしても生まれてしまい「停滞」しやすい気がする。別の目的を達成しようとしたときに、副産物的に生まれたものであれば「循環」しやすいのではないか。
あらゆるものをそんな風に定義しなおすと、「循環」の大きさも種類も広がっていくような気がする。
今週も、自分に出来ることをまっとうして、歩いていこうと思います◎よい日々になりますように。
人間が物々交換の不都合を腐らない「お金」で解消した事により経済が発展したが、自分達だけが得をしようとする事により、溜め込みや停滞が起きるのだろうね
フリーハンバーガー、とっても興味深いです
ハンバーガーを受け取った方も社会に対してアクションを起こしてくれるかもしれませんね
自分の得たものを社会に還元する…
私は何も還元するものを持っていない、いつも頂いてばかりで申し訳無い気持ちになります
「幸せとは副産物」なるほど、私には一生懸命さが足りないのかな?
幸せに気付いていないだけなのかも…