渡すために、渡された
少し前のブログに「私の生きてきた中で得たものは、私だけが所有していていいものなのだろうか?」というようなことを書いた。
それ以来、そのことをずっと考えていたのだけれど、ようやく問いに対するこたえが見えてきたような気がする。
やっぱり、私が生きてきた中で得てきたのもは、私だけが所有していていいものではない。私だけのものじゃない。なぜなら、これまで得てきたものは、自分が生み出したものではなく、これまで関わったすべての人から、贈られたものだから。
対人関係の中で学んだこと、親との関係・子との関係の中で学ぶこと、恋愛の中で学んだこと、本を読んで学んだこと、コーヒーを淹れる中で学んだこと、学校の勉強で学んだこと。
それらはすべて、バトンのようなもののはずなのだ。
自分が生み出したのではない。大きな大きな世界という川の川上から流れてきたものを、生まれた瞬間から今日に至るまで、享受し続けてきた。その結果、自分という人間が存在している。それだけのことだったのだ。
「なんで勉強しなくてはいけないの?」と、大人に聞いていたあのときの私に、今は教えてあげられるかもしれない。
算数からも、理科からも、国語からも、社会からも、音楽からも、図工からも。どの教科からも「豊かな日々に気付くため」のヒントを学んでいた。
その歴史を築いてきた人がいたから、今の私達は存在している。その方程式を発見した人がいたから、さまざまな技術が生まれ、その恩恵を受けている。言葉が存在しているから、こうして私達は「こころ」に向き合える。
もう、すでに、受け取っている。
「ゆっくり、いそげ」の影山さんの言葉を借りれば、それは「健全な負債感」ということになる。
今までだって、今日だって、ずっとずっと受け取っていた。ずっとずっと、贈られていた。この世界に生まれた瞬間から。
その途方も無さに愕然として、鳥肌すら立つ。
そう気付いたら、もうすることは決まっている。
バトンはずっと持っていても、なにも始まらない。それは、次に渡すために、手渡されたのだから。
バラバラに見える出来事の間には、透明な糸が張り巡らされている。透明だけれど、在る。それは確かに存在している。
とても大切なのにお金で買えないものは、他者から贈与してもらうことでしか手に入らない、と「世界は贈与でできている」という本に書かれていますね
今までに沢山の贈り物を受け取っている私達は、それらを「贈与」していかなければならないのですね
私の大好きな藤井風の「帰ろう」の歌詞にも“与えられるものこそ与えられたもの ありがとう、って胸をはろう” とあります
多分これも同じ様な考え方なのだと思うのです
受け取るばかりでなく社会(世界?)にお返しする、これも1つの愛の形なのだと勝手に思ったりしています