雨の贈り物
リビングの窓から、葉っぱが見える。葉っぱについた、まるい水滴がキラリと光る。
昨日の雨が残した痕跡の美しさに、心を奪われる。
雨は私を「喜ばせてあげよう!」として、降ったわけじゃない。自分の役目を全うした結果、どこかの誰かに「美しい贈り物をありがとう」と勝手に言われてしまっている。
クモの巣も、ドキリとするほどの美しさをもたらしてくれる。
雪の日の景色も、グラデーションの夕焼けも、そうかもしれない。
各々が、各々のするべきことをした結果、どこかの誰かが勝手に「ありがとう」と感じている。
先日「自分は何も持っていないし、誰かに何かをしてあげることも出来ないし、つねに罪悪感がある」という話をしてくれた子がいた。自分の存在意義はなんだろう?と頭を悩ますことは、人生で何度でもやってくるかもしれない。どうしようもないくらいに不甲斐なさを感じて、逃げたくなることもある。
だけれど、このようなことを私に話してくれた時点で、私はまたひとつ考えることが出来て、いろんな価値観に触れられる、という点において「ありがとう」と感じる。一緒に考えさせてくれて「ありがとう」と思う。
あなたが「自分には何もない」という気持ちを打ち明けてくれたことで「なにか伝えてあげることが出来るだろうか」と、ふつふつと沸いてきた気持ちは、間違いなく前向きな感情。
存在しているだけで、価値は、ある。
「助ける」→「助けられる」というのは、一方的な矢印のようだけれど、本当は「助ける」⇄「助けられる」。その瞬間に、逆側の矢印も発生させている。
「育てる」という行動は、こういう感じかもしれない。育てているものから物理的ななにかを受け取ろう、と思ってお世話をするわけではない。でも、世話をするという行動は、気にかける相手がいる、いなければ感じられない気持ちがある、ということでもあり、それだけで「育てられている」側も相手に生きるチカラを与えている。
そうやって社会は循環しているのかもしれない。
「使用価値がある人間」を目指した途端に、人間関係は交換条件になる。交換条件の人間関係は、疲れる。ずっと、虚勢をはってないといけないから。
そんなのを目指す前に「目の前にあるもの」に気付いたほうがいい。
いつだって「無いもの以外、すべて、在る」
自然は、いつもいろんなことを教えてくれる。自然はいつだって、目の前にある。
雨上がりの葉っぱについた驚くほどまん丸の雫や、太陽を背に42度の角度で現れる虹も、ただの自然現象
それに気付いて「ありがとう」と言えるのは自然を愛しているからなのかもしれません
自分の存在意義とはなにか、と悩みを打ち明ける
この難題を聞いあげるだけでも彼の助けになり、きっと心が軽くなっている事でしょう
私もstreet coffee&booksに通うようになってどれだけ救われていることだろう
人間関係はとても難しい
自分の心に嘘をついて無理をし続けるのか、または新しい何かに挑戦するのか
そろそろ決断しなければならない
「きっと大丈夫だよ」、と自分に言ってみる
人は幸せになるために産まれてきたのだから…