混沌と寛容
「寛容であるということは、不寛容な人に対しても寛容である、ということである」
なにかの本で読んで、グサリと刺さった言葉である。
寛容でありたい。それなのに「不寛容な人」に対して、「なんで!」と思ってしまうのは、自分自身が「不寛容」だという事実を突きつけられているということ。吐きそうなくらいのカウンターパンチである。
「寛容である」ということは「投げやり」ということとは違う。「投げやり」は、ものごとを「成り行きにまかせる」ということ。「寛容」は、自分とは異なる意見や価値観を受け入れようと努力すること。「違う」ということを切り離して目をそらすのではなく、一旦、受け止めようとする眼差しを向けること。
先日、豊田大橋の下で【橋の下世界音楽祭】が数年ぶりに実施された。
これほどまでに【混沌】とした世界を私は見たことがないし、これほどまでに【寛容】な世界を私は見たことがない。(もし時間があれば祭開催声明を一読してみてほしい)
どんな人がいても、排除されない。どんな人であろうと、非難されない。たったひとつ約束があるとしたら「他者への尊重を忘れない」ということ。
それは、「顔の見えない世間」ではなく、「いま目の前にいる相手」への尊重。
「橋の下世界音楽祭」は、いろんな人がいてカオスティックであるけれど、誰もが楽しそう。
普段生活している「街」は整っていて秩序的で表面上は「平和」であるように見えるけれど、人々の表情はどうだろう。(もちろん、日常と非日常で対比にはならないけれど)
どんな人が居ていいも場所。他人に対して寛容である場所。逆説的ではあるけれど、秩序を保とうとすればするほど内面的な「平和」は遠のいていくのではないか。「秩序を守ろう」とする姿勢が、いつのまにか「秩序を守らせよう」とする姿勢にすり替わってしまうのではないか。
「いろんな人がいるからね、」という言葉の続きが大事なのではないか。
「いろんな人がいるからね、合わない人は関わらない」なのか。「正さなくてはいけない」なのか。「違うことを楽しもう」なのか。異なるものから目を反らすのか。眼差しを向けるのか。
「正義」とはなんだろう。「平和」とはなんだろう。「優しさ」とはなんだろう。と、この祭りを見るたびに思う。
ーーーー以下、敬意を持って抜粋させていただきますーーー
この橋の下世界音楽祭は強いて言うなら実写版ペンギン村。様々な絶滅種の人間の宝庫であります。様々な人を見て育った子供は寛容に育ちます。寛容で豊かな世界を目指します。はみ出すことを恐れ、同調と窮屈で画一的な顔のない世界に対し、至って平和的かつ無限の創造性、音楽と表現とユーモアを持ってここにヒラリと叛旗を翻し皆さんの心を解放させていただきます。橋の下では橋の上での地位も冠も関係ありません。有るのは役割だけ。
”あと、これは1番大事。会場にいる子供達はすべて自分の子供だと思って事故の無いよう全ての人が見守ってあげてください。”
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寛容な世界をつくることは、根気がいるし、覚悟もいる。これだけの規模の準備や調整は、想像を絶するほど大変であるに違いない。
子どもにこの世界を見せられて、本当に良かった。ここで感じたものを、ちゃんと持って帰ること。大切なものは何かを考え続けること。自分にできることを、実践していくこと。
そうやって、リスペクトを形にしていくしかない。生きていることを実感する、よい週末でした。
橋の下世界音楽祭、10年も前から開催されていたのですね
「橋の下では橋の上での地位も冠も関係ありません。あるのは役割だけ」、なんと素晴らしい言葉でしょう
参加された皆さんが活き活きとして楽しめたんだろうと想像します
子供達の見守りに対する考え方もこの会場だけでなく、世界中でこう有るのが理想なのでしょう
この楽しそうな音楽祭、企業から私の良く知ってるコーヒー屋さんまで、沢山の協賛者さんの協力も有っての開催ですね
これからもずっと続いて欲しいイベントですね
そんな自由な場所、私も1つだけ知っています
今もまだ有るのかは分かりませんが鞍ヶ池公園のそばにプレイパーク…だったかな??っていう子供達をのびのびと遊ばせられる広場(山?)に子供達とよく行っていました
禁止事項はなく、火を使ったりナイフを使って工作したり、大人が口出ししないから子供達も木に登ったり大声を出して野山を掛け巡ったり…
木の枝からぶら下がるブランコなどの遊具の順番も「沢山遊んだから次は〇〇ちゃんの番ね」と大人が口出しせず、全て子供達に任せるスタイルでした
子供達は帰りの車の後席で家に着く前に疲れて寝るのが常でしたね
子供達の素晴らしい体験を通して未来がより良くなって行く事を願うばかりです