尊重についてを考える
先週の月曜日はCOFFEE SHOP JAM SESSIONSでした。
穏やかな駅前コーヒーが「イベント」という非日常が加わることで、ぎゅぎゅっと詰まった濃密な空間になりました。楽しみにして足を運んで頂いた方、ありがとうございました。
「このお店は、お客さんが尊重しあっている」出店してくれた有吉くんがそう表現してくれたのがとても嬉しかった。お店としてのしたいことが(ほんのすこしずつだけれど)形になってきているのかな、と。
このお店をはじめてから、本当の尊重ってなんだろうな、と考える日々です。
【相手の感情を先回りして想像して、それを踏まえて行動をすること】は、一見、相手を尊重しているように見えるけれど、私には少し違和感がある。誘導に近い窮屈さがある。(私の感情を先回りして勝手に想像しないで!という、ひねくれた私が顔を出してる)
そうではなくて【相手の感情は相手に委ねる】という勇気が必要なのではないか。
「自分がそうしたかったから、そうした」で成り立つ社会には窮屈さがない。そして「せっかくしてあげたのに!」が存在しない。
【状況を先回りして想像して行動はするけど、感情は介入しない】ということでもあるのかもしれない。
相手がどう感じるか、は分かるわけがないので一旦置いておく。その上で、相手を大切にする。
目の前の人を尊重しようとしたとき、相手に興味を持つことが1番の尊重である。それは言い換えれば「相手の話を聞く」ということ。
「話を聞いてあげたら嬉しいかなあ」と思って聞くことは、本当の意味では尊重ではないような気がする。
そうではなくて「ただただあなたのことを知りたい」と思う姿勢に、尊重が隠れているような気がする。
話を聞く、という見かけ上の行動は一緒でも、その2つは確実に違う。フラットな立場はどちらだろうか、と考えると自ずとみえてくるような気もする。
「嬉しい」「喜んでくれた」というのは結果的なものであって、相手が決めることであって、行った側からは介入する余地はない。だからそこは相手に任せて、そこに至るまでの経緯の中にどんな意図が介在していたのか、のほうが大切なのかもしれない。
強すぎる「喜ばせよう」は、場合によっては「喜ばさせられた」「喜ばざるおえなかった」「喜んだふりをしなければならなかった」という方向に無自覚のうちに誘導してしまうことがある。
これは、とても怖いことなのかもしれない。
ちなみに、尊重の対義語は「無視」である。相手を尊重して「話しかけない」のと、「居ないものとみなす」は、状況的には近いかもしれないけれど、空間の醸し出す雰囲気はまるで違う。そこに「まなざし」があるのか、という違いかもしれない。
お店の雰囲気が和やかでとてもいい感じのとき、お客さん同士が尊重しあってくれている空気を感じる。その時、きっと疎外されている人はいなくて、お客さんが一緒に雰囲気をつくってくれている気がする。
お店はみんなでつくっているものなのかもしれない。
本当の尊重って、おそらく非常に難しい。だからこそ、これからももっともっと真っ直ぐに考えていきたい。ヒントは日々の中に転がっている。
先週はエスプレッソみたいに濃縮した週でした。おもしろかった。
この内容も尊重に対する考えが濃縮されてて、一回読んだだけで整理できなかった(汗)
相手の感情は相手に委ねる勇気が必要←まさに!
相手の感情を先回りした行動は誘導でもある←確かに露骨にされたら嫌!
相手に興味を持つことが1番の尊重←聞いてもらう方からすると”思いやり”より”興味”の方が嬉しいかも
相手を尊重して話しかけない←ここは難しいとこ。これでさえも思いやりだったりするかも、、、
いずれにしても「尊重しよう」と思うと、そこには工夫や覚悟が生まれると思いますが、工夫も我慢も覚悟もなく要求だけする人に対してどこまで尊重できるのかのラインは難しいと思います。ただ、ラインという概念を持つこと自体がすでに覚悟がないのかもしれませんが・・
と、尊重の入り口を考えるいい機会になりました。