小さな芽を見守る

最近とても気になっていることがある。

個人のアイデンティティは、どのように(どの段階で)出来上がっていくのか?ということ。

【考え方の基盤】は、いつ頃から形成されてきたのか。環境によって0から形成されたのか。もしくは自分の中に遺伝子としての種のようなものがあったのか。記憶もないような幼少期に発生したのか。

以前は「環境や出会った人・言葉から自己が形成されてきた」と思っていたのだけれど、よくよく思い返してみると、物心ついて多くの人や本の言葉に出会う前段階で、私の芯となる部分はすでに芽生えていた気がする。

そもそも興味のある本の気配をキャッチして、その思想に自らふれにいっている、と考えると「出会いが0から1を生み出している」とは言い切れない。遺伝子(もしくは記憶のないほど幼少)の中に種があり、本や人との出会いはそれに水を注いで芽を出すようなものなのでは、とも考えられる。もしくは、一人一人の人間の中にはたくさんの種が内在しており、環境やふれたものによって出る芽が異なるのか。

過去の記憶を一つ一つ遡る。

中学生の時、出会って間もない人に「親友になろう」と言われたことがある。この時の言葉を私はとてつもなく不穏に感じ、「はぁぁ、、」とかなんとか誤魔化したような気がする。

あの時の気持ちを、今なら説明できる。

私はどうやら「人との関係性に名前も優劣もつけない」という信条があるらしい。【関係性の名前から相手との関係を構築する】のではなく【関係性の名前などを省いた状態で相手との個別の関係を大切にする】というタイプの人間らしいのだ。

(らしいのだ、などというと他人事のようだけれど、モヤモヤしていたことを深堀して言語化するとどうやらそういうことらしい、と最近知った。)

「友達」というくくりは存在せず、私とAさんの関係、私とBさんの関係、私とCさんの関係、、、などすべて個別の関係で、そこに比較や階層は存在しない。それぞれの愛の形がある。

つまり、先程の「親友になろう」という言葉であれば、そもそも「名前のついた関係」が自分の中に存在しないため、理解し難い投げかけとして目の前にあらわれたのである。(「親友かどうかとか、どうでも良くない?」というのが心の声である。)

「親友」という名前がついた途端、そこにはほんのわずかに義務や縛りのようなものが生じる。恋愛となれば、より一層。関係性の名前をつけることで発生するルールや影響や条件を極力なくし、自然で自発的な関係のみを採用する。それが自分にとっての心地よい生き方。

中学生の時には、そこまで鮮明に言語化は出来なかった。でも、確実にその芽は存在していた。果たして、いつそれが芽生えたのか。小学生?園児の頃?どんなふうにして生まれた種だったのか。ということに、とても興味がある。

そして、今現在、カフェを営む身として、この自身のあり方とお店のあり方が密接に関係していることに気付かされる。

関係性に名前をつけない。お客さんとお客さんじゃない人(通行人)を区別しない。常連さんと初めてきてくれた人に優劣をつけない。一人一人の人と個々に関係をつくる。境界線をつくらない。自然で自発的にお客さんのきたいタイミングで来てもらう。知っている人でも、知らない人でも、その場で目の前にいる相手をそのたびに愛する。

愛は特定の限られたものではない。個々の関係の中にそれぞれの愛を介在させる。

私が、私をダダ漏れにした結果、カフェとしては、なかなか心地よいゆるさを醸し出しているような気がする。(っていうか自分にとってはそりゃあ心地よいはずだ。心地よくない人もきっといるだろう。)

いつ発生したのかわからない小さな小さな芽に水を注ぎ、成長するがままに見守っていたら、なんか今のところこんな感じに育ちました。きっとこの先も、すくすくと成長していくのでしょう。どんな感じになるのかな。

エネルギーは、外から得るものではなく内に秘めているものなのかもしれない。学ぶものではなく、解き放すものかもしれない、と体感として思い始めている。

自分の中に可能性がある、っていうのはきっとそういうことなのだ。

誰かの小さな芽が垣間見えたとき、一緒にそっと見守りたい。それがどんな芽なのか、一緒に楽しみたい。わたしの芽はこんなだよ、って教えてくれたらとても嬉しい。

小さな芽が誰かに見落とされても、踏まれても、無かったことにはしなくていい。それが自分を大切にすることなのだ、と思う。

2022年10月23日 | Posted in ブログ, 最近の出来事, 私の生き方 | | 4 Comments » 

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コメント4件

  • norisan420 より:

    「環境や出会った人・言葉から自己が形成されてきた」確かにそんな風に思ってた。育った環境が違うから・・・って。確かにまだ言葉を発しない子ども達でもそれぞれ個性がある。

    『一人一人の人間の中にはたくさんの種が内在しており、環境やふれたものによって出る芽』
    なんかいいね。

    こんな風に個人個人を尊重し自分を大切にしてる人は
    なかなか居ないよ。
    だから駅前の小さな珈琲本屋さんは、癒しを求めて
    人が集まるのかも知れないね。

    わたしはどんな芽が出たのかな。
    太陽みたいにでっかくてあったかい。
    そんな人になりたい。

    水やり堆肥しときます。

    • NOZOMI より:

      のりさん

      不思議ですよね。こんなに沢山の人が居て、誰として同じ人は居ない。
      どんな人からも感じられるものがあるし、考え方もそれぞれ違う。
      ときどき「なんでこの人はこう感じるんだろう、どんなふうな景色をみているんだろう」ということが知りたいがあまり、
      「なんで?なんで?」と聞きすぎてしまって、うっとおしく思われることもしばしば。気をつけます。笑

      のりさんの芽、わたしはときどき眺めてますよ♪

  • 松島 馨 より:

    「一人一人の人間の中にはたくさんの種が内在しており、環境やふれたものによって出る芽が異なる」
    音楽家やスポーツ選手などは小さな頃から芽が出やすい環境が整っている事も多いですね
    興味を持ち、出た芽を開花させるのは本人の努力の賜物ですが

    出会って間もない人に「親友になろう」…うん、これは違和感を感じますね
    まず友達になり、深い信頼関係を経て親友になる…そんなものでもなく
    ただ、そう呼ばれている関係に明確な線引きもある訳でもない
    電話帳やメールのフォルダ別けの様な人間関係の区別は私もしていないかもしれません

    STREET COFFEE&BOOKSという居心地の良い空間をありがとうございます
    私はまだ芽は出ないのですが、ココロの栄養をたくさん頂いて、芽を出すタイミングを見計らっていますʬ

    • NOZOMI より:

      松島さん

      松島さんの芽、出てると思います^^
      おそらく、どの人からも出ていて、それをどう扱っているか、だけなのかも。

      5歳の息子も、もうすでに自我の種が爆発していて、非常におもしろいです。笑
      ここからさらに出会うもの、人、言葉などの要因にとってどう個人が形成されていくのか。
      あの人はどうなっていくのかな、あの子はどうなっていくのかな、と
      いろんな人に思いを巡らせて楽しんでいます♪

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