人間らしく生きる
「人間らしくありたい」
ことあるごとにこの言葉を意識してしまう。それを失いそうになったとき、絶望的な気持ちになったり、逃げ出したくなる。
たとえば、誘導尋問のように促されるCM、ベルトコンベアのように流されていく一方通行のスーパー、感情を無視した労働、モノのように扱われる心。
「今、この瞬間、私の意志は介在していない」
そう思った瞬間に、「人間らしくいられていないのではないか」といった気持ちが沸き起こる。だから、極力そういったシチュエーションを避けるような行動を選択している。
自分が機械のように扱われること、誰かを機械のように扱うこと、システムの一部として人間をはめ込むこと、そのようにして出来上がった社会、そういったものの居心地の悪さがどうしても受け入れられない。(社会が成り立つ上で、やむおえずそういった部分が必要なこともある、といった認識はあるつもりだけれど)
なぜ、ここまで「人間らしく在ること」にこだわるのか。その根源は、自分の中にあるのだろう。
「人間らしさを求める」ということは、「人間らしさを脅かされる危機感がある」ということでもある。「人間らしさを失う可能性」について恐怖を感じている、と言ってもいい。
「私は人間です」と主張しないと、そうでないものとして扱われてしまうのではないか、という心許なさでもあるのかもしれない。
私がカフェをしているのは「人間らしく在るため」で、「自分が人として生きていくため」の術でもあるような気がしている。
効率的で合理的な判断が主流の社会になっていくのであれば、そこからはみ出してしまう人の居場所を確保しないといけない。絶対に。
私たちは、人間だ。ひとりひとりに別々の感情があって、不合理なことを受け入れ、効率的ではないことをあえてする権利があり、理論だけでは説明し得ない行動を起こしうる。
そういった、おかしく、愛おしい人間なのだ。
人が人らしくいられる社会。当たり前のことを言っているようだけれど、私にとっては生命の維持がかかっている結構大切な問題だ。
どうか、これからも、すべての人が、人として尊重される社会でありますように。
会社における業務の効率化
・ムリ
・ムダ
・ムラ
をなくす事で業績がアップする
しかし仕事を効率よくこなせばこなす程、次の仕事が待ち構える
仕事をするのは機械ではなく人間なのに
釣りバカ日誌の浜ちゃんなど必要ないのだ
「イキイキ人間企業」を謳っている会社でも同じ事だ
逃げ出してきた自分を人間らしく扱ってくれる場所を知っている私は幸せだ
いつもありがとう