なんのために生きる?
コーヒー屋さんは、人の日常をつくる仕事。
日常とは、いつものリズム。単調で、ふつうで、なんの変哲もない、いつものリズム。
私の中でとくに大切にしているもの。
「単調なリズム」は、ある人にとっては退屈で、ある人にとっては安心で、ある人にとっては調律だったりする。社会が多大な刺激と挑発にまみれているのであれば、せめてコーヒー屋は煽らず追わず滾々としていたい。(私の勝手な理想ではあるが)
そうして単調な毎日だからこそ、ほんの少しのイレギュラーに敏感に反応したりする。
「今日は空気の色が微妙に黄色」だったり、「いつも街にいる人がいない」だったり、「いつもどおりに振る舞っているけど、ちょっと元気がないかもしれない」だったり。だからどう、というには至らないような小さな断片をそのまま自分のスペースに置いておく。
その断片の積み重ねが何かになるのか、と言われたらきっとそういうわけでもなく、ただそういう毎日を感じていること自体が、生きている目的であるともいえる。
先日「なんのために生きているのか」と、自分自身に対して問うている人がいた。
「なんのために生きているのか、わかんなくなっちゃうんだよね」という言葉に対して、なにかいい言葉が出てこないかなあと思ったのだけれど、結局出てきたのは「なんのために生きているんだろうね?」という返事にも満たない言葉だった。
なんのために生きているのか。生きるために生きている。それ以上に理由が必要だとすれば、自分で好きに理由付けしたっていい。もちろんしなくたっていい。
なんのために生きているのか、という問いは「なにかのために生きている」という大きな概念のなかで自分の役割を探すことかもしれない。
生きているから、じゃあなにしよっか、という考え方は「生きている」という現実を主導に自分の役割をつくることかもしれない。
なにかのために生きてもいいし、「なにかのために」という思いを持って生きなくてもいい。
ただ、今日もこれを読んでくれているということは、間違いなくあなたは「生きて」いて、それだけでいいし、それ以上必要なことってあるのだろうか、と思う。
せっかく生まれてきちゃったから、私は単調な日々の中の小さな差異をおもしろがることにした。その結果がどうなるのかは知らないけれど、どこかに到達するのかしないのか、それすらもわからない日々がたまらなく愛おしい。
なにかを目指して生きていたら、きっとそこに「到達」してしまうから、それはそれでいいのだけれど、なにかを目指さず瞬間瞬間を生きていたら、自分でもどんな人間になるのかわからなくて、予定調和の外側にいけるかもしれなくて、それはそれでおもしろいし未知の中にこそ自分でも描けない「無限の可能性」があるような気がしている。
自分の人生を支配し、制御したいのであれば、ゴールに向かっていくために、結末を思い描いたほうがいいのかもしれない。
私は誰かのことも、自分のことも、支配も制御もしたくないから、結末は描かない。自分の生に身を任せる。未確定で、不確実で、誰にもわからない。そっちのほうが、絶対おもしろい。
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コメント7件
今日は空気の色が黄色い?
空気に色があるなんて、いつも希さんの発想にはいい意味でビックリさせられます(*_*)
私も、空気の色を感じながら生きて行きたいな〜。
なんか、余裕あり、って感じる。
今日はこの辺で…。
今週もココのブログを読める幸せ
私は生きている
ありがとう
なんのために生きているのか明確な答えを持っている人は多くはないだろう
数年前に自分が生きている事に意味は有るのか?なんて思っているときにSuperflyの「Gifts」という曲に出会った
他の人の人生と比べる必要は無い、自分は自分らしく歩いて行けば良いのだ、と気付かされた
何度聴いても涙が溢れそうになるこの曲、ぜひ歌詞付きで聴いてみてください
ボートに大きなエンジン乗せて、風も波も関係なく爆走しながら、もっともっと大きなエンジン乗せて、人も荷物もたくさん載せるぞ!みたいな生き方もあれば、流木のように浮いてるだけの生き方もあるだろうしね。
この二つのどっちがいいかとかじゃなくて、自分の中にもどっちの要素があると思いながら、風や波を感じながら、うまく進むときも、ひっくり返るときもある。みたいなのが多くの人なのかなぁ。と思いました。
ところで眼鏡かけてるんだ(@_@)