所有、滞留、枯渇、循環
私たちは、何を所有していて、何を所有していなくて、何を所有したいと思っているのか。
先週はそんなことをずっと考えていた。
”所有”、、、自分のものとして持つこと。
例えば「地球」は誰が所有しているのか。
土地を購入する、というとその土地はその人のもの、だと考えられる。けれど、それは誰が決めたのか。人間が決めたのだとすれば、そもそも人間は地球を所有している、のか。そして、土地を所有していたら、その土地をどう扱ってもいいのか。
「時間」は、私が所有しているものか。「自分の時間」とは、自分の所有している時間なのか。自分の軸だけで取り扱ってもいい時間なのか。そもそも、「私の人生」は、私のものなのか。私の命は私が所有しているのか。私が所有しているとしたら、どう扱っても良いのか。
自分の「お金」は、私が所有しているものか。所有しているとしても、決して自分が「つくり出したもの」ではないはずだ。それはどこからかやってきて、どこかに流すもの。だとしたら、一瞬それが自分の元に「留まった」というだけで、所有ではなく「滞留」しているだけではないのか。
自分の「能力」は、自分が所有しているものか。それは、自分が手に入れた、ともいえるけれど、多くの人と関わる中で「譲り受けたもの」ともいえるのではないか。その場合、自分の「所有」としてしまえば、命が終わった時点でそれは消える。「共有」しなければ失われるものがあるのではないか。
なぜ、人は「所有」したがるのだろう。
「所有」は「価値」か。
所有した途端、さまざまなものが「停滞」し、滞っていくかもしれない。それがどういうことなのかは、「経済」を考えればよくわかる。
生物学者の福岡伸一さんの著書に多く並んでいる「動的平衡」という概念が、淀んだ社会には必要かもしれないと思っていて、それを”カフェとしてどう表現できるか”をずっと考えている。
動的平衡、とは”絶え間ない流れの中で一種のバランスが取れた状態のこと”である。壊しながら、製造する自らの身体の組織のようなもの。川が、一瞬たりとも同じ水ではないのに、常に水位を保ち続けるようなもの。ずっと同じ、ではない。ずっと生産し続ける。ずっと新鮮。でも、「増大はしない」
もし、どこかに「滞り」が起これば、その先のどこかで「枯渇」する。
「枯渇を避ける」には「贈り続けること」が必要で、そこには「贈ったとしてもまた新しく入ってくるはずだ」という「他者に対しての信頼」が必要になってくるのではないか、と思う。
所有は、価値か。川の流れを、自分の家だけに引き込み続けたら、その先の家々は水不足になるかもしれない。そして、流れは止まり、流入する水自体もなくなるのではないか。さまざまなものを停滞させた結果、自分たちも枯渇するとしたら、それは価値とはいえるのか。
時という流れの中に身を置き続けている「生物」は、何を所有して、何を共有すべきか。
きっと、もっともっと、よく考えないといけない。
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コメント4件
小学生の頃に不思議に思っていた事、それはあらゆる土地は誰かのものだということ
国のもの、県のもの、市のもの、個人もの……
それらを【不動産】といい、「妊婦さんが動かずに赤ちゃんを産むことが出来る産婦人科病院」ではなかったことʬʬʬ
所有したら留まってしまう…なるほど、お金も技術も優しい気持ちも ……ぐるぐると動き続いた方が多くの人が幸せになれる気がしますね
所有を「目的」と考えればそこがゴールで滞り、所有を「手段」と考えれば使用されるので共有したり流れたりするのでは。
前回のテーマの「なんのために生きる?」につながりますね。