ことばの余白

ことばを介さないコミュニケーションに興味が湧いている。

非言語コミュニケーション=ボディランゲージや声のトーンや表情、デザインやファッションもそれに含まれる。

私たちは、わかり合うためにはどのくらいの言葉が必要で、言葉がなければどのくらい分かり合えないのか。あるいは、どのくらいは分かりあえるのか。

コロナの初期の頃、私たちは他人と不用意に話すことを禁じられ「会話は必要最低限」に止めらた。そのときのもどかしい気持ちは今も忘れず、早く気にせずに他愛もないおしゃべりをしたいし、くだらない会話で笑い合いたいなあと思ったりした 。

私は言葉が好きだし、言葉に支えられて生きてきた。だけれど言葉にはときどき大きな落とし穴があるようにも感じる。

「言葉」は、万能な抽象概念で、たとえば「コーヒー」といえば相手も「コーヒー」を想像することができる。それゆえ「伝わった!」と思いやすいし、大枠で言えばきっとそれは「伝わった」になる。

そこに「ズレて伝わっている可能性という余白」はほぼ考慮されない。

もし「コーヒー」という単語がなければ、「黒い液体で、子どもが飲めないあの飲み物、ほら、あの」と「なんとか伝えようとする」しかない。

そのときに相手が「コーラ」を想像している可能性もあり、丁寧に認識をすり合わせて「シュワシュワはしていなくて」「ミルクをいれたりもする、あの液体」とかなんとか時間をかけてやり取りして、やっと「コーヒーの輪郭」が見え始める。

もし、齟齬があって「はい、これね!」とコーラが出てきたとしても「自分の伝え方が悪かったのかもしれない」「あっちの言い方をすればよかったのかもしれない」と、自らを省みることをするはずで、相手だけに一方的に怒りをぶつけたりはしないかもしれない。

この際、もうコーラでもいいか、なんて妥協するかもしれない。

的確な言葉があればあるほど、伝わるスピードは早い。そして同時に、認識に「ズレ」がある可能性をついつい忘れてしまう。「伝えたはずなのに伝わっていない」という経験するたびに「わかってもらえない」という絶望と孤独感は増していく。

そもそも、ボディランゲージしかなければ「伝わったか」「伝わっていないか」は不確定でしかなく、自分が正しいはずだ、相手が間違っている、という一方通行な矢印にはならないのではないか。

「不確定」の中には、許容や妥協、反省が入り混じっている。

英語しか話せない相手と、日本語しか話せない私の間でときどき巻き起こる、あの一生懸命なコミュニケーションは、もどかしく愛おしい。「そう!それ!」と、通じたときのハイタッチしたいような達成感は案外悪くない。あの瞬間、互いに互いを理解しようと向き合っている感覚が確かにある。

相手を理解’’する’’ことよりも、相手を理解’’しようとする’’ことのほうがよっぽどか大事な気がする。相手を100%理解することなどほぼ不可能なはずで、「100%理解した」と思った時点でそれは驕りだ。

言葉が好きだからこそ言葉によって苦しい気持ちを味わっている人の気持がどうしたら軽くなるのか、と考えずにはいられない。

便利な概念は、余白を塗りつぶしていく。

ときどき、その概念自体を疑ってみてもいいかもしれないし、塗り替えてみてもいいかもしれない。意図的に白色で塗ってみたり、消しゴムで端っこをこすってみたりしてもいい。

空間の余白、思考の余白、価値の余白、認識の余白。さまざまな余白について思いを巡らせる。

いたるところに意識的に余白をつくってみる。それは変動的で不確実で複雑で曖昧な時代を生きている私たちにとって必要な空間なのかもしれない。


2023年04月03日 | Posted in ブログ, 最近の出来事, 私の生き方 | | 3 Comments » 

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コメント3件

  • 松島 馨 より:

    ことばを介さないコミュニケーション、私が大好きなあのインド映画でも多く登場している
    なんでもインドは人口が多く、地域毎に様々な言語が使われている為、どこの地域の人にもわかりやすく届く様な映画作りがなされていると聞いた
    めっちゃ離れた場所からのハンドサイン、目配せによる意思の疎通、ちゃんと意味のあるダンスシーン、映画「RRR」は多分字幕が無くてもほぼ理解出来るんじゃないかと思われるʬʬ ぜひ鑑賞を!ʬ

    この間、朝の時間帯にゆかちゃん一人でお店を開けていた時に外国の方が「ビアプリーズ」と注文→「今の時間はビール無いんです」→「コーヒーメニューをゆび指し」→「コーヒー2杯を持ち帰りで注文」…なんだかんだで言葉はわからなくても何とかなるのねʬ

    つむちゃんにYouTubeに出て来た「カタカナ言葉」をどういう意味?って良く聞かれる
    5歳の子供にも解る様に言葉を選んで解説する
    その言葉を頭の中で色々考えるのもまた面白い
    へぇ~と納得してくれるのは少ないのだけれど…ʬʬʬ

    • NOZOMI より:

      松島さん

      インド映画は、ハンドサインや目配せ、ダンスでコミュニケーションする場面が多いんですね〜!へ〜!!
      注文のやりとりは、言葉がわからなくてもなんとかなったりして、そういうときの心地よさは案外いいものでもあるのかも。
      言葉があることで、繊細なニュアンスが伝わる。けど、失っているものも確実にある。

      ん〜。目配せでいろいろやりとり出来たら、なんかちょっと楽しそうだし、逆に距離が縮まりそう。

  • ぴーちゃん より:

    すぐに、高橋優の「福笑い」の歌詞、♪きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う、を思い出しました。
    笑顔って、大事。大事…。
    でも、現実には本当に、「言葉」の、無力さや、限界を感じざるを得ない事が多過ぎて面食らっています。
    いろいろと、上手くいかない時には、好きなアーティストのお気に入りのナンバーを流してみたり、ラジオを聴いたりして、気分を変えています。
    もちろん、できることなら、豊田市駅前に出掛けてSTREETcoffee&Booksさんへ、カフェラテを味わいに行きたいな❦
    何よりも、すぐに「笑顔」になれる場所。
    私にとって、「最高」、「最幸」の、パワースポットです(^^)
    早く、笑顔に逢いたいな

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