シェアマネーとは
先週から、実験的に「シェアマネー」というものを取り入れている。
シェアマネーとは、共有資金。「みんなのお金」というポジションであり、入れたい人がいれ、必要な人が使えるという猛烈シンプルな仕組みだ。
お金の入ったお皿が置いてあると、普通の感覚であれば「募金でもはじめたのか?」と思うかもしれない。でも、むしろ反対で、大切なのは必要としている人が「使うこと」である。
シェアマネーは、「所有者のいないお金」と、定義することができる。
所有者がいない、ということは誰のものでもない、ということ。誰が使ったっていい。そして、誰かが使ってくれた時に、はじめてそのお金には意味が生まれる。置いてあるだけでは、意味は生まれない。使った時に、初めてお店としては「売上」として計上される。使うことは、贈ること、と同義語でもある。
シェアマネーは、無理をして入れるものでもない。無理をして入れるのではなく、ほんの少しばかりの自分にとっての余剰を差し出す、ということ。
そして、自分にとってのほんの少しの余剰で、もしかしたらそれを使ってくれた誰かの心に、ほんの少し余白ができるかもしれない。その余白は、そのまた別の誰かにとっての余裕を生むかもしれない。
そう願いながら、お店の前に小皿を設置してみている。
領土の線を引かない、ということは、自分の陣地を広げようとする必要がない、ということ。広げようとする前に、もう差し出されている、ということ。
それは「奪い合い」が起きない、ということ。「盗る」「盗られる」という関係が、成立し得ないということ。
「奪い合う」のではなく、「補い合う」ということ。
「補い合う」ということは、「助けて」と言ってもいい、ということ。一人ですべてを背負い込まなくてもいい、ということ。つらい時には、頼っていい、ということ。
もし、資本主義の等価交換という思想が、間違った自己責任論を正当化しているのであれば、その概念自体を壊したい。壊せなくても、疑うきっかけにしたい。
そういうための、実験であり、取り組みです。
シェアマネー、小銭がちょっと足りない時に使わせて頂いています
もちろん「入れてくれた方ありがとう」という気持ちを込めて
たまには少しばかり入れてみたり
置いてある場所からして通りすがりに「ごっそり持っていかれる」なんて事はなさそうだし、仮に持って行かれたとしてもその人が必要なのだとすれば、それはそれで良いのだろう
この取り組みを見守る一員に入れて頂こうと思う