条件のない世界
子どもの目の前に、半分に割ったドーナツを差し出す。
あるときには、「どっちがいい?」と聞く。
別のときには「大きい方どうぞ」と選ばせる。
また別のときには「大きい方をママにちょうだい」と伝える。
どれも、彼がする行動は「選ぶ」であって、一緒なのだけれど、どう伝えるかで彼の心理は一変する。
「どっちがいい?」と聞いたときには、どっちが大きいかを真剣に見定めようとする。
「大きい方どうぞ」と言ったときには、「大きい方をママにあげる!」と言って、またまた真剣に選ぼうとする。
「大きい方をママにちょうだい」と言ったときには、「僕も大きい方がいい」と言って、これまた真剣に選ぼうとする。
どれも「ドーナツを真剣に選ぶ」という行為はかわらない。けれど、心情はまったく別物のものになる。
こういったことを、日々ぼんやりと眺めながら、日本の社会はどうだろう?と思いを巡らす。
こうした子どもとの日々のやりとりで、極力避けていることがある。それは「ドーナツ大きい方をあげるから、ママの言うことをきいてね」「買ってあげるから、いい子にしていてね」という、何かを引き合いに出した交換条件だ。
本来「ドーナツを渡すこと」と「大人の言うことをきくこと」は別のものであるにも関わらず、それに関連性を持たせて言うことをきかせるのはフェアじゃない。(とはいえ、どうにもならないときにはスパイス程度の最後の手段として使うこともあるが)
ドーナツの大きい方を渡されたからと言って、大人の言うことをきく筋合いはない。受け取ってしまったからといって、何かを返さなきゃいけない義務はない。あなたが勝手に大きな方を渡してきたんでしょう、といって跳ね除けたっていいはずだ。
自分が差し出そうとしたときには、相手も差し出そうとしてくれる可能性が高い。反対に、自分が奪おうとしたときは、相手も奪われないように必死に守る可能性が高い。
ただし、『差し出そうとしてくれるはずだから、差し出す』では、まるで違う。目的が発生した途端に、そこに誘導を感じ、それはたやすく相手に伝わる。
交換条件を突きつければ、相手も条件を突き返してくるだろう。
「贈る」の最悪な形があるとすれば、それは返報性を利用しようとした「贈るとみせかけたもの」であって、それはもはや「贈る形をした奪う」でもある。
私たちは、「純粋な受け取る」が見えにくい世界に放り出されている。
「メンバーズカードに登録してくれたら、値引きします」「何枚買ってくれたら、特典があります」「オプションをつけてくれたら、安くなります」
そして、『愛してくれたら、愛します』
それらは、私たちにwin-winだと訴えかける。あなたにとってもメリットがあるでしょう、と迫ってくる。
でも、本当にそうだろうか。それによって失っているものはないのだろうか。それによって奪われているものはないのか。
私が子どもに伝えるべきなのは『純粋な贈る』が、この世界に存在しているのだということ。『純粋な受け取る』を、いつでもどこでもしていいのだということ。
それは子どもに伝えるべきことであるのと同時に、社会に対して伝えたいことでもある。
伝え方によって、世界の見え方はかわる。
もし、目の前に交換条件ばかりが並べられているのであれば、それらから少し距離をとってみると、大事なことも見えてくるかもしれない。
『お店』という商売の世界にいることと、これらのメッセージは、相反するものでもある。だけれど、だからこそ、その世界の中からこっそりと伝えたいと思っている。
純粋な贈る、は、この世界にちゃんと存在している。
純粋な受け取る、は、誰もが手にしていい。
愛することにも、愛されることにも、条件はいらない。生きることに、条件はいらない。
ドーナツを分けて選ぶ事にも条件により様々な心の動きがあるのですね
独りっ子で自分専用に物を与えられ、友達と遊び道具をシェア出来ない、ドーナツなんかも分けてシェアする事が出来ない子が本当にいると聞いたことがある
つむちゃんは大丈夫そうですね
兄弟がいる場合の「分け方」も難しいんですよ
ケーキなんかも2つに分けても「こっちが大きい」、「オレの方が先にこっちを選んだ」、とかケンカになりますʬ
コレを解消する方法は、一人にケーキを2つに切り分けさせて、切り分けしなかった人が先に選べる、というやり方
この方法にしてから不平不満は言わなくなったよ
「贈る形をした奪う」、これまた興味深い言葉ですね
子供に対する「愛」も同じですね
愛情を注いでいるのだから返してくれると期待してはいけない
こちらから一方的に愛情を注げば良いのです
って、嫁さんに昔言われたのを思い出したよ
こちらが期待した通りに育って欲しい、とは思っていても子供の人生を生きるのは子供本人なのだから、任せるしかないのですね
純粋な贈る、純粋な受け取る、無償の愛のある世界は存在する