流動的ということ
水を見ているのがとても好きだ。水のなににそんなに惹かれるのだろう、と考えると、その流動性に美しさを感じているのかもしれない。
枠に沿って形を変えられる。勾配があれば、流れる。温度が変われば姿がまるで変わってしまうし、また元に戻ったりもする。外的環境によっては凍ったりもする。
その場に留まっていなくても、誰も文句も言わない。水はそういうものだからね、という一言で許される。
そういう水の奔放さが、たまらない。心底羨ましい。もはや好きというよりは、憧れているのかもしれない。
本来、自然界はほとんどすべてのものが流動的である。固定されたものなど何もなく、常に揺れ動いている。
木も、同じところに留まっているように見えるけれど、ほんのちょっとづつ動いているらしい。岩だって、風の影響なり雨の影響なりで、姿形は変わっていく。空気も、同じところに止まり続けるなんていうことはなく、常に”別の空気”として新しいものが吹き込み続けている。
それを、誰も咎めることもなく、常に変化した状態を受け入れる。受け入れる、受け入れないに関わらず、”ただ、そう在る”とも言える。
人間は、なぜそうはいかないんだろう。
人間社会は、固定されたものが多すぎて、息苦しい。
決められたこと、決まっていること、そこが揺るぎなければ揺るぎないほど逃走したくなる。
目の前にいる人に対する感情を、決めないことにしている。
いま”苦手な人”でも、明日になったら”すきな人”になるかもしれない。”苦手な人”を”苦手な人”と決めてしまうのは、私の中では感情の”固定”だ。今日の私は今日の感じ方をすればいい。明日の感情は明日の私に任せてある。そんな風に考えると、嫌いな人というのはほとんどいなくなる。
”決めない”ということは、はっきりしない、と捉えられ、しばしばネガティブに語られたりもするけれど、私はそうは思わない。その時、その瞬間の感情や感覚ほど正確なものはないと思う。
今日のことは、今日の私にまかせてほしい。明日のことは、明日の私にまかせるね。
今日の私が、明日の私とまったく同じである必要など何もない。誰かにそう決められる筋合いもない。
流動的であることの方が、固定的であることよりも、安定している気がする。というより、動いていることが前提なのだから、ぽきりと折れたり、突然の爆発をしたりはしないのかもしれない。
水をただただ眺めていること。小川や湖のそばに身を置き、その音の中に埋もれること。その時の安堵に身を委ねること。
私にとっての”それ”は水と光であるけれど、他の人にとっては”別の何か”であるかもしれない。あなたにとっての”それ”はなんですか、とこっそり聞いてみたいと思っている。
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コメント4件
水の魅力、解りますよ
砂糖や塩、コーヒーやその他の液体とも仲良しになれる
野菜や果物を生長させたり、お花を咲かせる力もある
車のエンジンを冷やしたり、蒸気となりピストンを動かしたり、タービンを回して発電したりも出来る
空気中を漂い、太陽の光を反射させて綺麗な虹を見せてくれるのも忘れちゃならない
今日の自分と明日の自分は、同じ「自分」なのだけれど全く同じなんて事はないのね
毎日、「今日の自分」を楽しまないとね
私にとっての”それ”は「空を眺めること」でしょうか
季節により雲の様子が違ったり、同じ青空でも色合いが毎日違っている
霧が出たり彩雲や虹が出現したり
やはりそこにも「水」が関わっていたりする…
決められたルール、生き方、価値観、規則、関わり方etc。
これらのお陰で安心して暮らせている一方で、それらに従って生きていることに居心地を感じてしまって自我がなくなってしまう恐怖がありますよね。
全てのルールをなくすことはできないけど、自分らしく縛りがない世の中であってほしいと思うばかりです。
僕にとっての”それ”は、森の中でハンモックに揺れてるような”木々の音とか鳥の声、そして宙に浮いているようなふわっとした感覚かな〜”