壊すこと、つくること
先日、古い民家の砂壁を壊すという体験をしてきました。
「壊すということは、解体するということ。解体するということは、わかるということ。壊すということは、わかるということ。」
そのときに話してくれた大工さんの言葉が印象的で、しばらく頭の中でじわじわと響いていました。
私たちは、壊すこともそこそこに、作ろう作ろう、としてしまいがちだ。本当は、最初にやるべきは、おそらく”壊す”ことであり、壊したときに出てくる”痕跡”や”傷跡”そして”修復の証”のような物を見つけて、対象について”知る”をするべきなのかもしれない。
「新しい自分になりたい」と思ったとき、資格や技術や知識を得たり、装備を増やしたり、外見を変えて「新しい自分」になろうとすることがある。
それは、瞬間的に、あるいは表面的には”新しい自分”になったような気がする。だけれど、本当は、おそらく、そんなに「新しい自分」にはなっていない。そもそも”新しい自分”とはなんだろうか。細胞的なレベルで言えば、私たちは常に”新しい自分”であるはずだ。細胞は常に、壊されて、作られている。
「新しい自分になりたい」っていう人はおそらくそういう意味でいっているのではなくて、「今の生き方を変えたい」と欲求しているのかもしれない。もしそうだとしたら、なぜ今の自分になっているのか、から解体しないといけない気がする。
解体とは、過去の傷跡や痕跡を、ひとつひとつ丁寧に見つけ直してそっとなぞること。どうしてそうなったのか、どうして傷ついたのか、もう一度解読し直すこと。
その時の自分に、もう一回聞いてみること。
”とっても嫌だった””とっても悲しかった””とっても辛かった”の裏には、きっと自分のアイデンティティが詰まっていて、それを消化しなければ何も変わらないような気がする。
”時間”が川のように流れていくものではなく、年輪のように内包していくものだとすれば、自己を解体することは痛みを伴う。なぜなら、治ったようにみえる傷跡を、もう一回そっと切り込みをいれて触診していくことだから。
大きく壊れないために、小さく壊れつづける。福岡伸一さんの「動的平衡」の言葉を借りれば、そういうことなのだろう。
砂壁を壊した時、出てきたのは竹で編んだ素地だった。
「内側はこんな風になっていたんだね。当時の職人さんは長い時間をかけて、大変な作業をして、きっと頑張ったんだね。」そういって、みんなでその竹を眺めた。
壊すことは、否定することではない。内部構造を知って、その当時の事情を慮ること。一つ一つ、丁寧に取り外し、大切に扱うこと。知ろうとすること。理解しようとすること。
それは、”破壊”とは違うのだ。
大きく変わらないために、小さく変わりつづける。それが「変わらない」ということなのかもしれない。
ひとつ前のブログの写真がその民家の砂壁でしょうか
大工さんの話や先人の知恵を知れて良い体験でしたね
土壁の表面に砂を塗り砂壁が出来上がる
土壁の土も藁が混ぜられ強度を増す
土壁の芯には竹で組まれた素地が有る
解体してみて砂壁の本質が見えてくるのですね
人間も「新しい自分になりたい」のならば、今までの自分を理解する事から始めなければならないのですね
全て新しくなったら「別人」になってしまうので、少しずつバージョンアップ出来たら良いな