同じ世界にいない、という絶望
これは「ピンクですか?」と、その人は言った。そのペンは水色だった。
次に持ってきたペンを指差し「これは黒ですか?」と言った。そのペンは紫色だった。
彼の中では、その色彩が「普通」なのであって、私のみた限りでは、それは「普通」ではなかった。
彼は、生まれたときからその色の世界で生きていて、私は生まれたときからこの色の世界で生きている。相手の色の世界を見ることはできない。そもそも、そのことに気が付きもしないことがほとんどだ。
誰しも同じ世界にはいない。まったく同じ景色をみることは不可能。
常にそういう思いを抱きながら生きている。
それは卑屈とか、自虐的とか、そういうことではなくて。そういうものなのだから、という前提で生きているということ。
自分の言っていることが「うんうん、」と頷かれながら、まったく別の言語に変換されているかもしれないということ。逆に、相手の言うことを「わかった!」と思いながら、全然わかっていないのかもしれないということ。
それは一旦、この世界に絶望するということ。
誰にもどうすることも出来ない孤独の中を一回泳いでみるということ。
先日、友人と『肯定の中から希望を見出しているのか、絶望の中から希望を見出しているのか』という話になった。その根本的違いは、いろいろなものの考え方に影響しているかもしれなかった。私は間違いなく後者だな、と思った。
自分の景色しか見れないから、他の景色が存在していることには通常なかなか気付かない。それがどのくらい違うのかは、想像もつかない。ネガフィルムとポジフィルムくらい違うのかもしれないし、表と裏がひっくり返っているくらい違うのかもしれない。
そういう発見のひとつひとつが、生きることのおもしろさかもしれない。
自分以外の誰かの感覚を、かわりに感じることは出来ない。誰にもジャッジすることは出来ない。それはつまり、間違っている感覚などないということ。それによって引き起こされる感情もしかり。
そう、そう。朝井リョウの正欲の映画、良かったです。たぶん、もっかい観る。
色彩だけでなくコーヒーなどの香りや味、聴こえてくる声、音だって皆んな自分と同じ様に感じていると思いこんで過ごしている
「このコーヒーは香りが良いね、舌にまとわり付く感じの粘度感があるね」ってのを共感してくれる人がいることは嬉しい事だ
自分と全く同じ感覚ではなくても、「なんとなくそんな感じ」を楽しみたい
映画、小説のアレですよね
好きなタイミングで映画に行く事は難しくなったけれど、公開終了までに観に行きたいな