交換と循環
例えば、何かの商品を買うとする。
それは、通常、お金と”交換”で手にすることができる。
商品と貨幣の等価交換が行われる。
これが、交換をベースにした消費の考え方だとしたら、別の見方はできないだろうか。
何かの商品を買うとする。
それは、購入する前から、商品として”そこにいてくれて”いる。
お金と交換可能な状態に”誰かがしてくれて”いる。
”誰か”は、それを作った人でもあるし、そこに置いておいてくれた人でもあるし、自分が買うよりも前にその商品を買った人でもある。
”自分が買うよりも前にその商品を買った人”がいたから、その商品は今日もそこに商品としてあり続けていてくれて、お金と交換可能な状態になってくれている。
それが途絶えれば、事業を継続することができず、それは”交換可能な状態の土台”に乗ることもない。
つまり、お金を払っても購入することは出来ない。
《お店とお客さん》という断片で見ると、それは確かに交換なのだけれど、《お客さんとお客さん》という流れで見ると、それは循環とも言える。
例えば、とっても大好きなお店があったとする。そこの商品をこれからもずっと買い続けたいと思っているとする。その時、そのお店のことを自分と同じように大好きで通っている別のお客さんも、自分と無関係ではなくなる。バトンを渡しながら共に走るチームメイトのような存在かもしれない。
そういう人たちがいるから、お店が成り立っている。継続することができる。あなたの隣にいる人とあなたは協力関係にあり、共存している。
そう思うと、お客さん同士が商品を奪い合うのはナンセンスであるような気がしてくる。
この穏やかな協力関係に亀裂を入れるものがあるとすれば、それは”所有欲”みたいなものかもしれない。
他の人より、多く手に入れたい、少しでも多く受け取りたい。より得をしたい。その根底には、そのお店に対するリスペクトはあるのだろうか。そこに、愛はあるのだろうか。
私がしたいことは、ちょとずつ意識を⇄から、→→→に変えていくこと。
それは、消費だけでなく、生命の循環なり、自然環境の循環なり、この世界に存在するすべてのことに通じてくるはずだ。
視点の提案。
「そんなのはどっちだっていいよ、関係無いよ、意味がないよ、だから何なの?」
そう言われることを承知の上で、この視点を提案し、表現し続けていかなきゃいけない、と思う。
なぜなら、それが、その視点が、世界平和に繋がっていることだと思うから。
今まで”交換”だと思っていたものを”循環”に捉え直す。視点を一回壊す。
よかったら、一回試してみてください。なんか、ちょっと、心中穏やかになるかもしれないです。たぶん。
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コメント4件
今日、思いがけず出会ったコーヒースタンド。
味わい深そうなコーヒーと本が並んでました。
ネットで本を買うのもいいけれど、せっかくだからこの店で買おう。この店が長く続いてくれれば、また来ることができる。自分の幸せへの投資。幸せの循環。
環を作ってくれてるみなさま、ごちそうさまでした。
交換から循環、仕組みをちょっとだけわかりやすくしたものが四角いガラスの入れ物でしょうか?
お金を払ってコーヒーを飲むけれど、それを使ってまた新たなコーヒー豆を仕入れて頂き、コーヒーを飲む人達を幸せにしている
経済をまわしている…というよりも幸せを循環させているとも言えそうだ