コーヒーという”ことば”
”コーヒーを丁寧に淹れること”を通して、目の前の人を丁寧に扱うこと。
コーヒーを淹れること、は、コーヒー屋の”ことば”なのかもしれない。
目の前の人を愛すること、を具現化するために、目の前の人のコーヒーを大切につくる。
あなたのことを大切に扱うように、あなたのためのコーヒーを大切に扱う。
それが、コーヒーを通してすることができる”対話”であり”ことば”なのかもしれない。
まず先に、コーヒーがあるのではなく、まず先に、人がいて、その表現としてコーヒーがある。
不器用な、愛情表現。
共通言語を話しているようで、共通言語を話していないものたちを、”伝達するもの”としてのコーヒー。
あなたが大切にしているものを、ともに大切にする。その姿勢をなんとか伝えるための手段。
それが私にとっては、私たちにとっては、コーヒーなのかもしれない。
風がそよそよ吹いて木漏れ日が揺れる。それは森のことばといえるかもしれない。
雨がしとしとと降って水溜りに波紋が広がる。それは水のことばといえるかもしれない。
身体が芯から温まるようなスープを作る。それは料理人のことばといえるかもしれない。
デザインはデザイナーのことばかもしれないし、歌は歌い手のことばかもしれない。自然環境が変化する、それは地球のことばといえるかもしれない。
コーヒー屋は、コーヒーということばを話している。
他者の扱っていることばを、読み取ろうとすること。分からないなりに、わかってみたいと思うこと。通訳なしで、ただ、そのことばを浴びること。そうして浴びているうちに、何かわかるのかもしれないし、わからないのかもしれない。
”コーヒーが淹れれるようになる”って、どういうことなのだろうと、しばらく考えていた。
数字を測って、レシピ通りに淹れれるようになること、が、コーヒーを淹れれるようになること、なのだとしたら、それはきっとすぐに達成される。
でも、きっと、”コーヒーを淹れれる”って、そういうことじゃない。
コーヒーということばを扱えるようになった時、コーヒーを淹れれる、といえるのかもしれない。
言語に思想が滲み出るように、コーヒーにもきっと、その人の思想が滲み出る。それが個性であり、ごまかせない自己紹介でもあるかもしれない。
私はコーヒーということばを扱えているのだろうか。
きっと、まだまだ、だ。
伸びしろは希望だ。
コーヒーを淹れることで人を幸せにし、自分も幸せになれる
そんな感じでしょうか
誰かに淹れてもらうコーヒーは美味しい
自分をもっと理解し愛せる様になれば、自分自身の為に淹れるコーヒーもさらに美味しくなる気がします