自分に適した摂取量
ちょっと、だめな感じがする。
そう感じると、とりあえず、家の中の目に見える場所を整頓して、車の中に掃除機をかけて(時間があれば洗車もして)お花屋さんと、本屋さんと、コーヒー屋さんに行く。
お花を選んでいるときは、鬱々としていたことなどなかったかのように、没頭できる。
お花を選んでいるときは、理由もなく、自分の感性だけに従って好きなお花を手に取っていく。その行為が、気持ちを浄化させるような気がする。どの花瓶に、どんな風に、どれをメインにして、、そこに並んでいる旬の花たちの中から、自分が眺めていたいものを取り込むように、手に取っていく。
本屋さんに行って、並んでいる本の中から、自分の好きそうなものを手に取り、パラパラとめくる。背表紙と目があった、と感じてドキリとしながら、歩をすすめる。好きな書き手の新しい本が出ていれば”予感”をもとに、レジに持っていく。店を出る足取りは、軽い。
特別に何かを欲することは少ないのだけれど、お花と本は別。ここに関しては、ちゃんと欲する。そして気に入ったものは、自分を誤魔化さずに、ちゃんと買う。
そして、コーヒー屋さんで、ふーーーーっと頭の中の言語を抜いていく。できれば、静かな方がいい。できれば、人が少ない方がいい。できれば、知っている人はいない方がいい。できれば、気にかけれらないくらいがいい。できれば、こちらも気にかけないことができる場所がいい。できれば、食べ物はない方がいい。できれば、極力、何も入っていないものがいい。
花屋も、本屋も、コーヒー屋も「病院」ではないのだけれど、病院みたい、といつも思う。私が、私を整えられる場所。
こういう日がときどき無いと、徐々に窒息していく気配がする。どちらかといえば、地味で、静かで、動きの小さな、摂取量も消費量も最小限な行為ばかりな気もする。
こういう日が、ときどきでも過ごせるのであれば、きっと私は大丈夫なのだ、と思う。
自分に適した摂取量を知ってからは、ある程度スムーズに自分をケアできている。
摂取量、とは”情報”や”飲食”や”購買意欲”や”人との関わり”などの、外部から摂取するあらゆるものの量。摂取量が増えれば、消費量も増えるかもしれない。または、消費量が多いから、摂取量も多いのかもしれない。
いずれにしても、それは”エネルギー量”と言えるかもしれない。
例えば、憧れの人がエネルギーの多い人だったとして。自分はそうでもないのに、その人の”行動だけ”を真似しても、疲弊する気がする。
反対に、エネルギー消費の多い人が、少ない人の真似をしたところで、”満たされない、つまらない”ということになりかねない。
そもそもの必要量が、人によって違う。
私に取っての必要量は、本当は、けっこう少なかった。過剰摂取をやめた時(または、そうならないように自分でコントロールできた時)とっても心地よい時間を過ごすことができる。
基本的に、消費も摂取も煽ってくるようなこの経済システムの中で、疲弊していない人はどれくらいいるのだろう。気付かぬうちに、疲れちゃっていないか。時々は内部の声に耳を澄まし、意図的に摂りすぎないように気をつける必要がある、と思う。
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コメント4件
自分が何をしたらチャージ出来るのか、わかっておくことが大事だし、疲弊してることに気づけるうちにケアするって大事だな、と思いました
疲弊し過ぎると悪あがきしまくって、真逆に走って行ってしまう…
最近までそうなってて、宇宙に消えそうになってましたw
内観して出てきた言葉が「生きてていいんだ」でしたしー!
他人と自分は違うことの認識も大事ですね
いつもは静かな場所が落ち着くけど、今日は音や人に紛れたくなってマックでゆっくり
ここのところ、毎回私にとってタイムリーな話題を言語化して下さってて、とても有難いです
自分を整えられる場所があるのは良いですね
駅前にあり「お昼うどん食べに行きませんか」って声をかけてくれたり、気軽に挨拶してくれたりと、自分が透明人間ではなかったと気付かせてくれるコーヒー屋さんも良いし、誰にも会わなくても静かに本を読めるコーヒー屋さんも良い
だいぶだめな感じがしてるけど、頑張らずに生きよう