くらやみ営業で感じたこと

先週は、思いがけずいい営業ができた一週間でした。

樹木荘は、念の為の台風対策で、雨戸を閉め、窓にはベニヤを貼り付けていて。台風、来る?来ない?どっちどっち?の数日間、ろうそくとスポットライトでくらやみ営業しました。

これが個人的にはけっこうおもしろくて。”瞑想席”と名付けた縁側の席は、ゆらめく蝋燭の灯と、隙間からこぼれる外界の光と、目を瞑ってじっくり自己と向き合う空間になっていました。

コーヒーを淹れるとき、スポットライトで照らされたコーヒーはいつも以上に美しく滴り、時々は暗い時間に営業するの、とってもいいかもしれない!と、ワクワクした時間でした。

”暗い方から明るい方はみえるけれど、明るい方から暗い方はみえないのよ。”

その言葉をみたときに、ハッとして、ゾクリとした。だから、私は、暗い方に身を置いていたいのかもしれなかった。物理的にも、精神的にも。

明るくてキラキラして、綺麗で透明で、ハッピーで、みんながいるところ、からはみえないものがある。目をこらしても、どれだけみようとしても、意識を向けようとしても、照明が当たっている場所から真っ暗な場所はみえない。

でも、暗い場所から、明るい場所ははっきりとみえる。そして、暗い場所から暗い場所も、目が馴染んで、じわりじわりとみえてくる。

誰もとりこぼされないように。そう思ったときに、自分が立っているべき場所は、暗くて静かな底の方なのだ、と改めて思った。

「しんどいときに行ける場所が、案外ないんだよ」

そう言いながらきてくれた人が、無理に笑顔をつくらなくてもいいように。ハッピーな自分を演じなくてもいいように。流れる涙をそのまま流していられるように。

”今後、自分がどんなことをして生きていきたいか”と考えたときに、やはり根底にあるのはその部分だった。

社会には”ただ、頭の中の不安を吐露できる場所”や”孤独や寂しさを誰かに聞いてもらう時間”が、もっともっと必要なのではないか。

私がしたいことは、誰かの存在にじっくりと耳を傾けること、なのかもしれない。

お店の営業中では、どうしても全方向に意識を向ける必要があり、会話が途中になってしまったり、作業をしながらの”きく”になってしまい、それが引っかかっていた。

もう少し、意識のすべてを、その人の語られる言葉に、語られないことばに、集中できるような時間が欲しい。

STREETともROJIとも別の、あくまで個人的な活動として、そういうことをやっていきたい。

誰かと話をしたいとき、誰かに話を聞いてほしいとき、ただ誰かと一緒にコーヒーをのみたいとき、頭の中がパンクしそうな時。ただの隣人、第三者だからこそ吐き出せることもあるはずだ。

需要あるのか、とか、やれるのか、とか、いつ・どうやって、とか、色々考えることはあるけれど、やりたいな。

だって、あのときの私は、それに救われたのだから。

くらやみ営業は、思いがけない気付きがあった。おもしろい一週間でした。

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コメント2件

  • 松島 馨 より:

    照明器具が無く雨戸を閉めただけであの暗さ
    瞑想席とっても良かったです
    ゆらめく蝋燭の灯りを見ながら「なにも考えない」そんな時間の過ごし方もアリですね

    何年も真っ暗の中を生きてきたから目が慣れてきたのかな
    眩しすぎない、ぼんやりとした明るさの世界に出掛けてみよう

    新とよパークの焚き火会?みたいにお話を聴いて欲しい人は結構いると思います
    ここにもひとり! 予約入れときますʬ

    • NOZOMI より:

      松島さん

      ”何にも考えない”って、案外難しいのかもしれないですね。
      (何にも考えない、何にも考えない、、)と、つい考えてしまいそう。笑

      新とよパークの焚き火会、は、そんな感じなんですね!なるほど〜!
      ”どうでもいい話”をする日常的な会話の場と、
      ”自分の中と向き合う為”の対話の場と、どちらもあればとってもいい気がします^^

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