頭の言葉と身体のこえ
「、、美味し、、」
朝のカフェラテを一口飲んで、そう思った日が私にとっては秋のはじまり。
毎日おんなじ豆で、おんなじ具合で、おんなじように淹れていて、それでいてハッとするほど”昨日と何か”が違うとき。
豆のエイジングぴったりだった、とか、ジャストで調整できた、とか、ミルクがよかった、とか、外側の原因もあるかもしれないけれど、”品質”とは違う意味で、ハッとするほど染みるとき。それは私の身体が”美味しい”といっているのであって、それはもう少し内的な理由があるような気がして、そういうのを私は「身体がいっている」と表現している。
それは、”言葉”になる前の”こえ”のようなものかもしれなくて、それを無視しないことが、きっと、私が私を大切にする、ということだと思っている。
「身体のこえ」は、小さな声であることが多い。それゆえ、簡単に「頭の言葉」にかき消される。
ときどき「身体のこえのフリをした頭の言葉」というのもある。他人からは識別がつかず、本人ですらどこから出てきた言葉なのかわからなくなってしまう。
私は自分の「頭の言葉」をあんまり信用していない。頭はうまく出来すぎている。自分自身が傷つかないように、世界の湾曲すら可能にする。
それに比べ「身体のこえ」は、ストレートだ。言葉を用いない方法で、私に訴えかけてくる。
”とっても大切にしていたもの”があったとする。
「大切だから、大事にしよう」と、気にかけ、手をかけ、慎重に包み、守ろうとする。
それは、”大切にしよう”という意思だ。
”大切にしよう、大切にしよう”と意識しなければ大切に出来ないのであれば、”そもそもそれは大切なのか?””なぜ大切だと思っているのか?”というところから掘り下げたら、なにかがわかるかもしれない。
大事なもの、は”思わず大切に扱ってしまうもの”であって、”意識しなければうっかり蔑ろにしてしまうもの”ではないのではないか。
”大切にしよう、大切にしよう”と心掛けていれば、きっと型として”大切にしているように扱うこと”はできるようになる。けれど、それと「本当に大切だと思っていること」はイコールではない。
その場合、”大切にしようという意思”は頭の言葉な気がする。”しよう”というよりは”しなければならない”というニュアンスに近い。
頭の言葉は、これまで生きてきた中で自然と身についた、いくつもの理論で形成されている。
その理論や前提が違えば、頭の言葉はまったく違うものになる。
頭の言葉を客観的に分解していったら、自分を形成してきた理論を理解するのにとっても役立つ。
身体のこえは、自分が生まれ持った性質を理解するのにとっても役立つ。
このことばは、私の中の誰がいってるのか?ということを、いつも考えている。
「やりたい」という気持ち一つとったって、頭のいっている「やりたい」と、身体のいっている「やりたい」は、全然ちがう。
身体のいうことだけを聞いていられたら、とっても穏やかではあるけれど。社会で生きていく以上はそういう訳にもいかないから、「これは頭の言葉だね」「これは身体のこえだね」ということを認識しながら、尊重したり、宥めたりしながら生きている。
どっちのことばも、私を形成する大切なパーツなのだから。
関連記事
コメント5件
仰ってる「からだのこえ」は
世間では「肚の声」と言い
「頭の言葉」と仰っている「日常の声」に
現代人は頭の中が支配され聞こえないので
瞑想をして聞こえる体勢を作ろうと
世の著名人等は日々実践をし
また瞑想による心を整えることが
精神の病に改善がみられるか。
の実証実験が心療の世界では繰り広げられていますね。
秋を感じる「、、美味し、、」は身体のこえなのですね
私は何時も美味しいと感じちゃうから季節を感じられないなʬ
あ、冬に指先の芯まで冷えている時にホットコーヒーのカップを受け取る際に指が感じる温度差で冬を感じるかな?と無理やり季節を感じられる人感を出してみるʬ
「頭の言葉」は脳が作り出したもの、「身体のこえ」は本当の自分である心から発せられたものって感じでしょうか
ヨロコビ、カナシミ、シンパイ、ムカムカ、ハズカシたちの「こえ」なのかもしれませんね
インサイドヘッド2とても良かったです
自分自身の感情と仲良くなれそうですよね☺