ここに、居るということ
”もっと”という欲求は人間の潜在的なものか、否か。
もっと、美味しく。
もっと、便利に。
もっと、効率よく。
もっと、健康に。
もっと、美しく。
もっと、多く。
もっと、楽しく。
これらは、人間の当然の欲求なのか。
この、”もっと”は、資本主義社会においてはおそらくとっても必要ではあるのだけれど、これがある限り人間に幸福は訪れないのではないか、と思う。
もっと、もっと、に、終止符を打ったとき、初めて心穏やかに健やかに生きられるような気がする。
もっと、となにかを求めるとき、今ある形を変形させることを願っている。
変形したものさえあれば幸せに”なれる”、と思っている。
でも、その時の”なった幸せ”は、はたして本当に幸せか。
”もっと”を手に入れたから、”幸せ”に”なった”のか。
だとしたら、またさらに上の”もっと”を求めるのはなぜか。
その時、その人は幸福なのか。
今あるものを受け入れていないということは、その瞬間そのひとは「そこには居ない」
もっと、もっと、と言っている時、その人はずっとそこには居ない。
「いま、ここに居ない」ということに、私は強い不安を覚える。
たとえば、子どもがゲームや動画を見ているとき、彼は「ここに、居ない」
ゲームの中に世界をつくり、その中でなにかを構築している。それはそれでとってもいいのだけれど、楽しいのだけれど、それは電源をOFFにしたら消えてしまう世界で、その世界のなかに行ってしまうとき、意識としての彼はここにはおらず、彼は目の前の人にも横の人にも無関心になり、私の声は届かない。
そこに寂しさを感じる。
街をみていると、とても感じる。
みんな、ここに居いるのに、みんな、ここに居ない。
大人であっても、SNSであっても、「もっと」の渦中にあっても一緒かもしれなくて、一緒にいるのに一緒に居ないのはそういうことかもしれなくて、
だからときどきは「もっと」を一旦脇に置いて、その他の世界を一旦OFFにして、いま目の前にある形を一緒になぞってみませんか、という、そういう提案をしていたいな、と思う。
自分が”ここ”に居て、相手も”ここ”に居るとき、安堵と心地よさに包まれる気がする。
”もっと”は、人間の本能的な欲求ではないような気がする。それらは目に見えない空気のような、さも当然かのような存在で、私たちは吸い込みすぎてしまっただけな気がする。
その肺の中のその空気を一旦すべて吐き出すために、大きく息を吐く。
きっと、また吸ってしまうけれど、その時にはまた大きく吐き出せばいい、のかもしれない。
そう、藤井風の歌の歌詞にも「手にした瞬間になくなる喜び-」とある
人間は「今、幸せである」事も忘れてしまうみたいだ
子供とゲーム、動画の関係のお話し、解ります!
寂しくなるんです、話しかけたら返事はするんですが心はこの世界に居ない…みたいな
我が家では夕食時はテーブルにスマホを持って来ない様に「ルール」ではなく「お願い」しています
同じ場所にいても「違う世界」ではなく、「同じ世界」で一緒に過ごしたいですね