雪と珈琲
駅前で、コーヒーを淹れていてよかったなあ。
一番そう思うのは、雪がちらちらと舞う日の朝かもしれない。
指先は冷たく、凍えそう、人通りは少なく、薄暗く、しーんとしていて孤独を感じる。
私がそう感じる時は、もしかしたら通りがかっていく人もそう感じているかもしれなくて。
「本当に寒いですねえ、、」などと言いながら、鼻を赤くしながら、コーヒーを淹れさせてもらうその時間がたまらないな、と思う。
雪には吸音効果がある、と聞いたことがある。確かに雪の日はいつもより静かだ。
”しーん”という文字が目で見えるような感じがする。
音に過剰に反応してしまう性質を伴う者にとって、あの感じはとっても心地良い。
無である、ということの許容の広さであり、際限のなさであり、刹那でもあるかもしれない。
「何かが無い」のではなく「無いが在る」ということは、喪失ではなく創造なのだろう、と思う。
どんな人のためにお店をやっているのか。それは、今この瞬間に”心細いな”と感じている人へ、なのかもしれないと思う。
初めてこの地に降りた人も、転勤や出張の人も、住んでいるけれど居場所がない人も、途方に暮れている人も、もやもやしている人も、時々オフィスから逃げ出したくなる人も、まだ帰りたくはない人も、雪のなか仕事に向かう人も。
心細さを抱えながら生きているすべての人へ、ということなのかもしれない。
”珈琲は孤独に寄り添う飲み物”というのはある本で見かけた言葉だが、まさにそうなのだ、と。
暗くて朧げな視界のなかにも、ときどきあかりが灯っている。その、ときどき灯っているあかりのひとつになれたらいいなあ、と思う。
コーヒー屋にはそれが出来る、たぶん。
雪の日に淹れるコーヒーには、たぶん、とても意味があって。それは数とか量とか、そういうものではなくて。なぜ、私は駅前でコーヒーを淹れていたいのか、という原点を思い出させるからなのだと思う。
ここには、今日も灯りがついているよ。
たったそれだけのこと言いたいがために、続けているのだろうな、と思う。
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