”みんなで”のこと

”みんなで”という言葉に、どうにも馴染めない。

先日の授業参観は、「みんなであそぶと楽しい」という言葉が出てきて、健やかな子どもたちは当然のようにそれを受け取っていたように思えて、とても羨ましいと思った。

本当にひねくれた話なのだけれど、私はみんなであそぶことにあんまり楽しさを覚えない。

みんなで何かをするということは、少なからず個人の何かを妥協することで、自分のリズムでは動けないということで、それは私にとっての”楽しい”とはちょっとズレたところにある。

「みんなでドッジボールしよう!」という提案がなされる時、できればその”みんな”の中に入らずに済むように聴こえていなかったことにしたり、トイレに行っていたりしたい。”みんな”の輪の中に入らずに、外側から”みんな”の輪を見ていたい。(そっちのがぜったい楽しい)

”みんなで”を強要することは独裁的だと思っていた。(ただ、今考えればそもそも”強要”はされていないのかったのかもしれない)

どちらかといえば、みんなで!という提案は、ネガティブなイメージの時にだけあればいい、と思っている節がある。

例えば、何かの役割を決めるときや、誰もが率先してやりたいわけではないとき、”みんなで協力してなんとかがんばりましょう”のような”みんな”は、説得力がある。

みんなで協力したり、みんなで負荷を分担するような”みんな”は必要だし、その場合の”みんな”はとても意味があるような気がする。その時は”みんな”の中に入りたい。

ネガティブなシチュエーションの”みんな”はしっくりくる。ポジティブなシチュエーションの”みんな”はしっくりこない。

「楽しい」や「しあわせ」が、みんなで共有してつくるようなイメージではなく、個人の中にあるようなイメージなのかもしれない。個々の楽しい、が、それぞれ好き好きにバラバラなままでぶちまけられているような状態が、好みなのかもしれない。

みんなという言葉に胡散臭さを感じるのは、”みんな”と言いながら”全員”ではないことが時々あるからかもしれない。みんなって、どこからどこまでなのか。みんな、といいながら、誰かが排除されているような状況はどういうことなのか。”みんな”と、”みんなではない人”の間に見えない線があるとしたら、それは”みんな”といえるのか。

”みんな”というからには、”全員”であってほしい。

”みんなで”が、誰も取りこぼされないための言葉であってほしい、と思う。

2025年12月01日 | Posted in ブログ, 最近の出来事, 私の生き方 | | 5 Comments » 

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コメント5件

  • 松島 馨 より:

    小学生の頃は学校の「放課」の時間は皆んなグランドに出て遊んでいた記憶
    そんな中、教室に残って本を読んでいる子もいたし、おしゃべりしてる子もいた
    私も教室残って女の子とおしゃべりしてる方が好きだったかのもしれない
    “皆んな”に合わせなくても自分のやりたい事をやっていた方が幸福度は高いのは良くわかる
    「皆んな○○」持ってるから買って!とかは皆んなでない事がほとんどなので信用してはいけないʬʬʬ

    • NOZOMI より:

      松島さん

      なんの疑問もなく、”みんな”で楽しめる人が、私には持っていない能力すぎて眩しさを感じます。
      私は、みんなが放課に誰かの机に集合しておしゃべりするのがめんどくさすぎて、ひたすら寝ていました。
      今も何にも変わっていなくてびっくりします。笑

  • hat1980 より:

    子供の頃、
    「みんな」が持っていたゲーム機を買ってもらえなかった。
    「みんな」が読んでた漫画を買ってもらえなかった。
    ちゃんと理由はあるのだけれども、親から伝家の宝刀「よそはよそ、うちはうち」で斬られるたびに
    ぐぬぬ。。。と悔しい思いをしたのを思い出します。

    親になって「みんな」の危うさに気がつくわけですが、上のような話があると人格形成に
    大きく影響するのでとても悩ましかったのを思い出します。

    • NOZOMI より:

      hat1980さん

      みんな持ってるから買って!私も言っていた気がします。笑

      そうですね、確かに。
      大人になって、”みんな”や”世間”の得体のなさを知るのかも。
      判断基準が”みんなと一緒だから”になってしまうことは、結構危ない気がします。

  • たまごサンド より:

    「みんなで遊ぶと楽しい」の「みんな」も「楽しい」も発信者側の定義で、一人一人の定義は微妙にずれてるから、結果として多くの人が「思っていたようなみんなじゃない」とか「思っていたような楽しいではない」となりがち。
    この場合、発信者に悪意がないとしたら、受信者側が自分の責任だと思い込んで自分を責めるパターンになるし、逆に発信者側に明らかに悪意があれば、発信者を責めることができて自分は被害者の立場を獲得するわけだけど、どっちも幸せではないですね。
    そうならない対策を考える上では「人と自分は違う」「他人のことは理解しにくい」という前提が大事だと思います。

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