”みんなで”のこと

”みんなで”という言葉に、どうにも馴染めない。
先日の授業参観は、「みんなであそぶと楽しい」という言葉が出てきて、健やかな子どもたちは当然のようにそれを受け取っていたように思えて、とても羨ましいと思った。
本当にひねくれた話なのだけれど、私はみんなであそぶことにあんまり楽しさを覚えない。
みんなで何かをするということは、少なからず個人の何かを妥協することで、自分のリズムでは動けないということで、それは私にとっての”楽しい”とはちょっとズレたところにある。
「みんなでドッジボールしよう!」という提案がなされる時、できればその”みんな”の中に入らずに済むように聴こえていなかったことにしたり、トイレに行っていたりしたい。”みんな”の輪の中に入らずに、外側から”みんな”の輪を見ていたい。(そっちのがぜったい楽しい)
”みんなで”を強要することは独裁的だと思っていた。(ただ、今考えればそもそも”強要”はされていないのかったのかもしれない)
どちらかといえば、みんなで!という提案は、ネガティブなイメージの時にだけあればいい、と思っている節がある。
例えば、何かの役割を決めるときや、誰もが率先してやりたいわけではないとき、”みんなで協力してなんとかがんばりましょう”のような”みんな”は、説得力がある。
みんなで協力したり、みんなで負荷を分担するような”みんな”は必要だし、その場合の”みんな”はとても意味があるような気がする。その時は”みんな”の中に入りたい。
ネガティブなシチュエーションの”みんな”はしっくりくる。ポジティブなシチュエーションの”みんな”はしっくりこない。
「楽しい」や「しあわせ」が、みんなで共有してつくるようなイメージではなく、個人の中にあるようなイメージなのかもしれない。個々の楽しい、が、それぞれ好き好きにバラバラなままでぶちまけられているような状態が、好みなのかもしれない。
みんなという言葉に胡散臭さを感じるのは、”みんな”と言いながら”全員”ではないことが時々あるからかもしれない。みんなって、どこからどこまでなのか。みんな、といいながら、誰かが排除されているような状況はどういうことなのか。”みんな”と、”みんなではない人”の間に見えない線があるとしたら、それは”みんな”といえるのか。
”みんな”というからには、”全員”であってほしい。
”みんなで”が、誰も取りこぼされないための言葉であってほしい、と思う。







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