あんしん・あんぜん
6月の中頃から、ちょこちょこ外の世界を楽しんでいる。
ひとりで出かけることもあるし、息子と街を散策することもある。旦那さんは、長らく行けていなかったサーフィンや日曜大工に精を出している。3人で外食にする機会もやっと増えてきた。
街に出ると、飲食店やショッピングセンターのいたるところに【安心・安全】の文言が並ぶ。「当店は、新型コロナへの対策を強化しているので安心安全です!」の主張、対策店舗の称号。
言いたいことは、とってもよく分かる。お客さんに安心してほしい、という気持ちの現れなのだということもわかっている。
それでも、なんだか、げんなりしてしまう。
【安心・安全】って、なんだろうな。安心安全だといわれていたあらゆることが、のちのち全然安心安全ではなかった、ということだって散々露見してきている。
日本人が自分で判断する能力がなくなってしまったのは、【自分で判断するという能力を奪われていること】に気づいていないからなのかもしれない。
言葉は、人を動かすことができる。
けれど、それは言葉を取り込んだ本人の自発的な意思決定に基づいて行われるものであって欲しい。
ここのところ、ブログが【怒っている感】があるらしい。(言われて気が付いた)おそらく、やり場のない感情をここに書き込んでいるのだと思う。
本人は、至って平穏なのだけれど、ここ数ヶ月で心がたくさん動いている証拠なのだと思う。考える機会が得られるのは良いことだ。
おととい、大雨災害の悲壮な映像が流れているニュースに、地震のニュース速報までもがただならぬ気配で飛び込んできて、安心安全な国に住んでいると思いこんでいた自分がひどく滑稽に思えた。
安心安全、というのは100%ではない。いつだって100%にはなりえない。100%安心安全、などというものは生きている限り、動いている限り、100%ありえない。
安心安全、いい加減もういいよ…と思ってしまうこともあります。
大したことない事を、大問題であるかのように騒いで。
本当は深刻な状態状況であることは、隠されて。
マスコミの言葉を鵜呑みにする人の多いことに、愕然とします。
ヨーロッパとか。川に柵もない遊歩道を見ると、広々と伸びやかで気持ち良いなぁ…と思います。
日本だと、柵を作った上で「危ないから入るな」の看板が作られるんだろうな。
コントロールされていたら、文句言うだけで責任を負わなくて良いから楽なのかもしれませんね。。