戦闘回避型人間
「コロナに負けるな!」という言葉が、どうにも苦手だ。
街頭に大きな文字で標識のように掲げられたその光景を見るとげんなりしてしまう。SNSの投稿も同様。
おそらく語呂的に「風邪に負けルナ!」というCMからきていると思うのだけれど、あれは「バファリンルナ」という商品のキャッチコピーだからキャッチーになるのであって「コロナに負けるな!」では、ただの根性論のような、患ったら負けだと言われているようななんとも言えない気持ちになる。
私たちって、いつから戦っていたんでしたっけ。「勝ち負け」という概念には「敵」と「味方」という図式が構成され、それがどうにも心地悪い。世間一般的にはそうでもないのだろうか。
そういえば、昔から「勝敗を決める」ということがものすごく苦手だった。苦手だったというか、興味がわかなかった。
負けるのは嬉しくないけれど、勝つのもそんなに嬉しくない。なぜなら、自分が勝った場合には、目の前には必ず「負けた人」が存在しており、その表情を見ることも心境を想像することもしんどい。だから、勝ちたくはない。自分のちょっと負け、くらいで「あとちょっとだったのになあ~!」と悔しがってみせるくらいが一番ちょうどいい。
夫婦間や友達同士で大きな言い争いやケンカにならないのも、こういう性質が関係しているのだろう。自分が優勢になってくると居心地が悪くなってきて「でも、あなたの主張も一理あるよね。あなたの側からみれば正しいよね」と必ず相手に逃げ道を用意する。
追い詰めない。戦いたくない。勝敗なんてなくていい。勝ち負けを決めることに意味なんてあるのだろうか、とすら思っている。
勝ち負けには「対する相手」が存在している。相手の視点を考慮してしまう、というのは「害獣」や「害虫」といった呼び方が苦手なのも関係しているような気がしている。人間側からしてみたら「害」であっても、動物側からしてみたら私たちが「害」だよね?と、反対側の主張(想像の上で)も配慮したくなる。
ウィルスだって、私たちからしてみたら「嬉しくない存在」ではあるけれど、地球からしてみたらウィルスより人間の方が「嬉しくない存在」だったりしない?勝手に増殖して破壊しやがって、とか思ってるんじゃない?と、どうにも変な視点での妄想が膨らみ、話が逸れていく。
そういえば、お店の正面に大手のカフェができたときにも「負けないようにね!」と多くの人に言われたような気がする。その言葉は喝としてありがたく受け取っておく。だけれど、そもそも規模もコンセプトも損益分岐点も目指しているところも、何もかも違うお店を相手に勝つとか負けるとかってあるのだろうか。何をもって「勝ち」を決めるのだろうか。
私にはわからない。
数字がない世界には、勝ち負けは存在しないのだろうか。
昔から、トランプやゲームやボーリングなどの遊戯をしたがらない娘を見て、両親は「この子は負けず嫌いで、負けるのが嫌だから勝負しないんじゃないか」と思っていたような節がある。現に「のんちゃんは負けず嫌いだから、」と言われて育ち、その言葉を間に受け自分でもそうなのかと思っていた。
でも、大人になって気がついた。
私は根っからの戦いたくない人間、勝つことに意味をみいだせない人間だ。
逃げている、と思われても仕方がない。でも、逃げているどころか別のフィールドにいる、と思ってもらった方が適切のような気もする。
違和感のある言葉を、そのまま放置せずに探っていくことをぜひともお勧めしたい。その奥深くには自分のコンプレックスや気付いていない素質が眠っていることがある。
自分を知っていくのは心底、愉快である。
関連記事
コメント4件
最近、ふと立ち止まる機会があって、勝ち負けのない世界を想像してみようと試みてみたものの、出来ませんでした。
そんなもんかも?と思っています。
wwwwwwwwwww(笑)
のんちゃん最高‼️
やっぱりおもろいなぁ。
別のフィールドにいる
いい‼️いい‼️
誰と戦ってんの?って思う事はあるなぁ。
どうぞどうぞあなたの勝ちでいいですよってなる。
強いて言うなら、自分との戦いかな。
昨日の自分より成長したいとか、
昨日より楽しもうとか。
後戻りしたって、失敗したっていい。
.
.
.
.
文章が下手で申し訳ないです。
またゆっくりお話しできる日を楽しみにしてます。